Montag, 21. April 2008
刊行にあたり
「ドイツ・ブラームス協会」は本書を皮切りに、一般読者に興味深いと思われるものを、徐々に出版していく予定であるが、その内訳は、1897年4月3日にウィーンで死去した音楽家ヨハネス・ブラームスの遺産、それに広範囲の交友と活動上の書簡から生じた文書で著作権上彼の遺産に付加されるか、売却により合法的に協会に所有権が移転したものからなる。
ブラームスが最後の遺言状とした1891年5月の出版者フリッツ・ジムロック宛の手紙は、筆跡が揺らぎ、後から抹消して付け加えるという様式の乱れのため、法的要件を充たさず、妥当なものとは認められなかった。弱々しい筆跡で書かれた要旨は、死亡者の住居で発見された手紙は、差出人に送り返されない限り、すべて無条件で破棄するという指図であった。一見して苛立ちのなかで急いで書かれたことが明白な遺言で、これを直ちに執行せず、芸術史的に価値ある証拠品と取るに足らない私的書類とを司法的に認められる区別をしたのは、相続代理人であるウィーンのヨゼフ・ライツェ博士の功績である。エリッヒ・フォン・ホルンボステル博士と協力して、ライツェ博士は長期にわたる苦労の多い相続過程の当初から、賢明かつ誠実な調停方針を、妥協的かつ合目的な方法で、断固維持、貫徹すべく努力して成功したのである。彼の存在なくしては、この素敵な語る友情の記念碑、読者を真に偉大で重要な三人の人物といっそう親密にする本書は根底から破壊され、この類まれな魂のハーモニーの純粋三和音を凡人の耳ではもはや聴くことができなかったのである。
関係者の利益代表として決定権を委ねられていた枢密顧問官であるライプツィッヒのアドルフ・ヴァッハ博士、さらには価値ある自筆書簡の幸運な所有者フロイライン・へレーネ・ハウプトマンには、そのご好意と積極的な貢献に感謝するものである。
さらに、書簡集の発行者はライプツィッヒのヘルツォーゲンベルク作品の出版者ヘル・エドムント・アストール、グムンデンのクンバーランド公爵殿下の司書ヘル・ハインリッヒ・ブック、ユリウス・エプシュタイン教授、フラウ・ベルタ・ファーベル、大学教授オイセビウス・マンディチェフスキー博士、ウィーン楽友協会資料室の諸氏に感謝するものである。
序
「頌歌に歌われないまま影のところへ行かせないでください。
ただミューズのみが死にいくらかの生命を与えてくれます。」
ゲーテ
„ Laß nicht ungerühmt mich zu den Schatten hinabgehn!
Nur die Muse gewährt einziges Leben Tod.“
Goethe
前世紀の60年代の中頃、印象的で可愛いい金髪の少女二人がウィーン社交界の注目を集めた。劇場や音楽会場ではいつも、ケルンテンの劇場やウィーン市内でもしばしば彼女たちを見かけるようになった。普通は気品のある両親と一緒であったが、両親の貴族的な雰囲気は姉妹の高貴な家柄をおのずと物語っていた。彼女たちが大使席を占めるやいなや、満場の注目は二人の若い貴婦人に集中した。一人はフリードリヒ・シラーを想わせる横顔で、女の美しさの盛りを誇示し、もう一人はまだずっと繊細で淑やかな体つきで、まだようやく花も蕾の年頃であった。すなわち、ハノーファーの侍従長、枢密顧問官、臨時特使で、オーストリアの宮廷での全権大臣であったボド・フォン・シュトックハウゼン男爵の令嬢たちであった。
レーベンハーゲン、インブセン、ニーデムイェファ、スターネの領主であり、1861年には、ヘルマンスローデの初代限定相続者になったボド・フォン・シュトックハウゼンは、その姓と爵位が示すように、古文書によれば、1070年にはオットー・フォン・バイエルン公に仕えたニーダーザクセン・ヘッセンの旧くからの貴族の子孫であり、彼が1853年にパリの公使からウィーンの公使に転勤したのは43才の時である。彼は1837年に伯爵令嬢クロティルダ・アンネット・ボーディッシンと結婚し、三人の子供に恵まれた。息子のエルンストは1838年5月11日にベルリンで、二人の娘のうち、ユーリエは1842年2月25日にパリで、エリーザベトは1847年4月13日に同所で誕生している。この公務により、芸術に捧げる時間的余裕が与えられ、彼はこの時間をまずなによりも音楽にあてたのである。彼はパリでの長年の滞在を利用して、彼と同年のショパンと後には弟子のモルハンゲからピアノの演奏を習っていた。知性と機知あふれる夫人は文学に惹かれていた。しかしながら、二人は互いに深く結びつける趣味を共有し、補い合ったのである。家庭の平安を世俗の雑音で失うことなく、公使としてのやむをえない義務を除いては、もっぱら子供の教育に専念し、できる限りつつましい生活を送ったのである。
いかに両親と子供たちの関係が内面的であり、雰囲気が良かったかは、エリーザベトが1888年11月にリーター・ビーダーマン出版社の所有者であるエドムント・アストールにあてた二通の手紙が明らかにしてくれる。彼女が病気で寝込んでいたとき、子供のいる女性たちに贈るために、彼女はドイツ童謡集(一部は非常に古く、彼女が見つけ出した)の一部を編曲したが、そのときは彼女の自筆であった。予備は無くなってしまったが、なにせ価値があり、大部分は一般に知られていない旋律である。もう一度自分で書くよりは、クリスマスの時期でもあり、ひょっとして出版者は、快く印刷してはくれないであろうかと思ったのである。だが彼女は、この程度のことで作曲家の仲間入りするのは気がひけた。フラウ・ヘルツォーゲンベルクとして表紙にのるのも滑稽なので、そのかわりにもっとも陽気なペンネームを選んだのである。――――そして彼女は次のように述べて決定を撤回した。「わたしが提案したいペンネームは私にとってはすごく楽しいものです。だって、わたしたち(両親と兄弟姉妹)は昔々、グリムの美しきカトリネリエに求婚するピッフ・ポッフ・ポルトリエのお話で呼び合っていたのです。癖になっていたものですから、他人の前であだ名を使わないのに苦労しました。父はホレンデ父さん、母はマルコ母さんというわけです。それで一番年下のわたしは美しきカトリネリエになりました。花嫁探しの童謡の登場人物は同じですから、自然に思い浮かび、わたしはすぐにこのカトリネリエの名前を取ることにしました。その後で、カトリネリエに『可愛く、おしゃべりで、元気な』をつけることにしました。そうすれば、誰もがすぐにペンネームに気づくでしょうから。ファニー・マイアーのようにすぐに名前を決めました。ですから、お願いします。いろんな名前をはずしてください。簡単に、『ソロとピアノに編曲した24の童謡』としてください。その上に、音楽好きの子供たちに捧げる、とします。これで、ありきたりの『童謡集』とかいう題を避けたいのです。」
シュトックハウゼン家の子供たちでとくに抜きん出ていたのは末っ子のエリーザベトである。彼女の童謡の「美しきカトリネリエ」で謡われたように「可愛く、おしゃべりで、元気がいい」だけではなく、卓越した芸術的才能を持ち合わせたが故に、両親が老年になるまで、喜びと誇りであった。
母親からは魅惑的な美貌のみならず、才気煥発であり、瞬時にして理解し、正確かつ信頼しうる判断を下す能力を、父親からは卓越した音楽的才能を譲り受け、エリーザベトは歌手として、ピアニストとして、それどころか作曲家としても光り輝いていたのである。両親には彼女を職業的芸術家にする気はなかったものの、音楽的教養に適切かつ有用なことはすべて試みている。男爵は、信心深いプロテスタントであり、教会に行くことを地位に相応しい当然の義務と考えていただけではなく、ウィーンのアウグスブルク派の福音教会の誠実な牧師で、熱烈な音楽愛好者であるグスタフ・ポルブスキーと交友関係を結び、令嬢の音楽理論の教育をオルガニストのディルツカに託したのである。エリーザベトはピアノ演奏の初歩をディルツカから学び、1861年にはその初等教師から、当時ウィーンで卓越したピアニストであり、有名な音楽教師のユリウス・エプシュタインにつき、その指導の下で非常に進歩し、父親との四手の演奏で次第に音楽の知識を広く身につけていった。後にエリーザベトは彼女の音楽の修行過程を要約している。「ディルツカからは音楽を教わり、エプスタインから初めてピアノ演奏を学びました。」彼女の恩師は今なお、自分の弟子を思い出しては熱弁をふるう。「彼女の才能にはもう夢中になり、その進歩には驚嘆しました。彼女のタッチは柔らかで、技巧にはまったくよどみがなく、すばやい理解力、類まれな記憶力、心のこもった表現力 ―― 一言で言えば、彼女は天才です。その上、彼女は大変な美貌に恵まれ、聡明で、教養があり、上品で親切ですから、うっとりしてしまいました。彼女こそは忘れえぬ女性です。」
この優雅な人柄の逃れがたい魔力に、痩せて背の高い青年が屈したのである。彼は1862年に生まれ故郷のグラーツを後にして、宮廷オペラ楽団指揮者、音楽院の教授、フィルハーモニック・コンサートの指揮者である、オットー・デソッフについて音楽を学ぶためにウィーンにやってきた。彼の最高目標は芸術であったから、以前に志した法律家という職業では、彼の野心を満足させられなかったのである。男爵ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクは――一彼の家族名(Picot de Peccaduc)はフランス語の翻訳である――一1846年グラーツで死去した帝国収入役、アウグスト・ピーター・フォン・ヘルツォーゲンベルクの息子であり、オーストリアに移民したカトリックのフランス貴族の末裔であり、家系図に関してはシュトックハウゼン家と比肩するものである。エリーザベト・フォン・シュトックハウゼン同様に、多方面に天分があり、ただちに修得してその領域を極めることができた。現代のルネッサンス人ともいうべき彼は、もし彼の強い愛着のある音楽の領域にとどまる決心をしていなかったら、画家、建築家、学者、あるいは詩人になっていたであろう。彼の究極の目的に適合する限りにおいて、彼のその他の豊かな可能性を吸収し、没頭したのである。彼の才能の多面性は、ロマン派のロベルト・シューマンや「未来の芸術作品」の創始者であるリヒァルト・ワーグナーがこの少年に与えた影響で明らかである。この影響は、最初にセバスティアン・バッハの楽派で育った音楽家や人物は意識して避けようとするものである。しかしながら、カトリック教徒であり、教区教会のイエズス会の学校の生徒であった彼の前には、バッハがプロテスタント教会音楽の偉大かつ重要な創造にかかわった彼の音楽で登場することはほとんどなく、彼の血に注がれ、腐敗発酵する新ドイツ楽派の素材から解放されるのは困難であった。彼はその弱点を知っており、気づいたときには冷静なたゆまぬ意思の力で、内を武装した不屈の信念でそれと闘ったのである。すくなからぬものが、己の生産力を測定する慧眼から逃れただけ、彼が苦労して獲得した認識は素朴という優れた素質を犠牲にしたのである。湧き出る霊感の純粋さに疑念を抱くや、己の才能の自然な霊感に疑問を感じ、彼は熱狂の酒に水を注ぎ、極端を避けんがために反対の方に向かい、酔うよりは、冷えて乾燥した、味気ないのを好むように見えた。彼の想像力は厳格な評論家的几帳面さに病んでおり、あらゆる形式の音楽芸術において、技術的・理論的成果は、純粋な音楽的見解の唱道者や先駆者が巧みに作品を仕上げるための前提条件ではあるものの、彼はこれに不釣合いに偏る危険性があった。ブラームスが脱帽して叫んだ。「ヘルツォーゲンベルクはわれわれ全員合わせたよりも達者だ。」
ヘルツォーゲンベルクは、1862年にハンブルクからウィーンに来て、そこに定住した10歳年上のブラームスに自身の芸術的理想を見出し、以後、彼と張り合い、ワーグナーの対極となる作品に傾倒し、これを人生の目標と課題とすることになる。ブラームスはデソッフの家(彼はそこで食事をしていた)に出入りしていたので、二人は1863年から1864年ぐらいには知り合っていた。デソッフの弟子が北ドイツの若き巨匠の性格から受けた深い印象は長く残り、ヘルツォーゲンベルクは1897年3月26日の死の床に就いたブラームスにあてた最後の手紙でこの思い出を書いている。34年前と同じように、ハインリッヒは作曲について自問している。「彼(ブラームス)はどう言うだろうか。」ヘルツォーゲンベルクは彼と知り合った最初のとき同様に巨匠に恩義を感じていたのである。彼をスイスの出版社リーター・ビーダーマンに紹介したのはブラームスであった。ブラームスは1864年3月26日にウィーンからヴィンターテュールに宛てて書いた。「ここに青年がいます。ヘル・ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクは宮廷楽長オットー・デソッフの弟子であり、私は彼から品の良い歌曲を見つけました。本人は出版を強く願っております。言うまでもなく、貴社にたいして大いなる尊敬の念を抱いており、私の紹介を願っております。謝礼に関しては何の要求も持っておりませんが、あなたが最初の曲にはいい条件を提示される方であることを言い聞かせました。ある程度の部数を引き渡すとか、仕事を継続させるとかでよろしかろうと存じます。いかなる条件で作品1番を受け入れてくださるか一言お手紙をいただければ幸いです。私は歌曲にいくつか目を通しました。作品の価値にばらつきはあるものの、多くはかなり巧みに仕上げられており、飾り気のない表現の作品もかなり見受けられます。私はたまたま関心を持ちましたが、あなたのご感想をお伺いするしだいであります。」
ウィーンの最初のコンサートでは、作曲家というよりはピアニスト・ブラームスの印象が聴衆には強かったが、新人がピアノの教授を振り出しに出発する限りにおいては、これは好都合であった。当時ブラームスが主に頼れる収入はウィーンのジング・アカデミーの監督の報酬であり、彼の生活を維持するには少なく、時々出版された彼の作品の謝礼の穴埋めにもならないものであった。ポルブスツキーの家で出会ったフォン・シュトックハウゼン男爵が、娘のエリーザベトの音楽の修行を監督する話を持ち出したのを幸運と思い、直ちに受け入れたのである。不思議なことにこの雇用はすぐに終わったのである。数回訪問した後で、この寡黙で、はにかみ屋で、内気な先生は、授業をやめると宣言した。「不利な扱いを受けているエプシュタインが気に病んで、侮辱されたと感ずるのは当然だ。」年上の娘のユーリエを教えているエプシュタインには練習時間を増やすとか、すべて望みどおりにするから、なんなりと要求してくれと言われたが無駄だった。エプシュタインは、崇拝するブラームスからはいかなる面でも障害を取り除きたいと考えていたので、従来どおり高潔かつ犠牲的精神で、弟子は巨匠に譲る、こころからそれを望んでいることであるといった。さらに彼女の病気に気づいてはいなかったのに、エリーザベトを断念するとはっきり誓った。しかしながら、ブラームスは自分の決定に固執し、沈黙し、後退したのである。エリーザベト・フォン・シュトックハウゼンとの交流は二人の共通の友との偶然の出会いまで待つことになる。
ヘルツォーゲンベルクは1864年にデソッフの下での修行を終え、二、三年の期待と憧れの日々を送った後にエリーザベトに求婚した。1868年11月26日にこの果報者は花嫁を連れて帰郷した。若い夫婦はグラーツに引っ越し、芸術により高められ、固められた愛の生活を送ったが、子供がないのが夫婦の大きな嘆きであった。フラウ・エリーザベトは、どんなに卑しい女でも与かることのできるこの幸せ、そしてきわめて貧しい人がしばしば呪って嘆くこの幸せが、彼女には与えられなかったことを生涯克服できなかった。一部の女性解放を求める高慢な女達は、男性を嫉妬しては憎み、科学、芸術、生活のあらゆる分野で、男性と競争して勝利を収めたいと願うのであるが、彼女はその連中とは異なり、夫婦と母親の愛を女性の天職と考えていた。彼女はブラームスに書いている。「親愛なる彼女(フラウ・エンゲルマン・ブランデス、彼女は結婚前に有名なピアニストであった)によろしくお伝えください。彼女は白くて可愛らしい手でピアノが弾け、小鳩のように笑い、すべての人を魅了します。――そして子供たちをこの世につれてきます。これこそ女がこの地上でできる、最も本質的ですばらしいことです。」彼女の自然な感性からすれば、豊かな肉体と精神に恵まれた女が、その性を否定することなく、自分に宿る力量の均整の取れた発展を通して、純粋な人生の調和に到達しようとしたが故に、エンマこそが従うべき手本であった。彼女のハーモニーには基音が欠けていたという、完全には抑え切れない苦しみは、彼女の感受性をヒロイックなものにした。彼女には、最愛の子を亡くした母、もう一人のニオベすらねたましいと思えた。その女には子がいたし、その子を胸に抱きしめたではないか。ブラームスはアンセルム・フォイエルバッハの死去にさいしてきわめて高貴な哀悼曲(シラーのネーニー)の作曲に励んだが、彼女は叫んだ「このお母さんは幸せです。嘆けばあなたが哀悼の歌を捧げるのだから」と。そしてフリードリッヒ・クリサンダーが大いに期待をかけ、彼の生涯の仕事の後継者で完成者と決めていた息子を霊柩車で病院から運び出したとき、苦しくつらい言葉が出た。「この悲しみを見るにつけ、つい――つい――思慮分別のない人たちが言うのは正しいのではと思います。子供を亡くすくらいなら最初からいない方がいい。」
フラウ・エリーザベトは彼女が持てなかったものの代わりに、彼女と夫の芸術で、人生の行路をほんの束の間横切り、良い思い出を残してくれた偉大な音楽家や人物との友情で埋め合わせるべく努力した。ライプツィッヒで彼女はブラームスと再会する。若い夫婦は1872年にこの地に移り住んだのである。グラーツには親密な人間関係があり、ムーレ川沿いにあるこの年金生活者の町は、他所から来た人にはかなりくつろげる所である。ブラームスが1867年の11月にヨアヒムと演奏会を開いたとき、その印象が非常に魅力的であったので、ぜひとも滞在したくなった所である。のどかさに加えて、ヘルツォーゲンベルクが交響詩と劇的カンタータ(「オデュッセウス」と「コロンブス」)で勝ち取った成功が地域的であるという感じや一身上の問題もあり、あれやこれやで、あまりに地方的な状況を断固変えることが望ましいと思われたのである。昔からドイツの中心に位置するこのプライセ川沿いの音楽都市は、出版社、演奏団体、音楽協会が多く、知的かつ社交的交流で知られ、あらゆる面で刺激と挑戦が約束されていた。この新参の夫妻は、最初の用心深い隠遁生活から次第に陽気に自信に満ち溢れて登場し、ライプツィッヒが彼らの期待以上であったことを悟ったのである。エンゲルマン家、フレーゲ家、フォン・ホルシュタイン家、ヴァッハ家。――誠実かつ高潔、ミューズにより、楽しく、上品になった交流の家庭的な憩いの場――が彼らの前に現れ、この愛すべき、誰からも感心をもたれる、この素敵な芸術家夫婦は、その自由で束縛されない南ドイツ固有の人柄、控えめで感受性豊かな北ドイツ的人柄を隠す、感じのいいウィーン口調の話し振りで、まもなく大きなサークルの中心に立っていたのである。エドムント・アストールは、義父のリーター・ビーダーマンの後継者と目されていたが、彼がヘルツォーゲンベルクの成熟した作品の献身的で誠実な出版者となる。ハインリッヒは1876年のアストールの義父の死後ライプツィッヒに拠点をおいた会社と再び関係を結ぶことになった。彼の義父は、ニ短調協奏曲、ヘ短調五重奏曲、ドイツ・レクイエムその他、当初は決して利潤を約束するはずのないブラームスの作品の出版者であったが、傑作の赤字で動揺することはなかった。アストールもヘルツォーゲンベルクを断固信頼し、長年の忍耐を要したものの、この信頼は損なわれなかった。相互の思いやりは偉大であり、一度は危うく壊れかけたが、誤解にいたらなかった。ヘルツォーゲンベルクにしてみれば、売れそうにない大規模な合唱曲をアストールに危険を冒して出版してくれと頼めた義理ではなかったが、アストールは以下の「現実的」提案に怒ったのである。すなわち、ピアノ編曲版に限定する。総譜と声部は入れないで、そこは作曲者の負担でコピーさせ、この曲が売れだすまでは、フェラインに貸与するというものである。この戦術は実によく考えられたものであるが、そこに信頼の欠如をかぎつけた実業家には合点がいかなかったのである。誤解が解けると、ヘルツォーゲンベルクが驚いたことに、アストールは出版すると主張して、こう答えたのである。「あなたの提案がどれほど嬉しかったか信じられるかい。高貴さと揺るがぬ信頼であなたに匹敵する人がいるとは思えないよ。自らの不明をさらけ出したように、こと信頼に関しては、私もあなたには敵わないよ。」
これらの実りある交友関係あるいは仕事の上での関係以外に、夫婦の芸術的発展とくに夫にとって重要な意義があった。すなわち、セバスティアン・バッハの実践的研究とその成果としてのプロテスタント教会音楽との関係である。ライプツィッヒにおける10年(1875-1885)は、ウィーンやグラーツでのヘルツォーゲンベルクの修行時代の後に、巨匠に成長した遍歴の時代というべきであり、その間に彼は学んでは教え、受け取っては与え、偉大なトマス・カントールの広大な芸術領域をあまねく遍歴したのである。ライプツィッヒにおいて、ブラームスもその音楽的直感の深さと清らかさに感謝したこの泉の水を、彼は直接手ですくって飲んだのである。すなわち、バッハの受難曲、モテット、カンタータは彼の精神の中で、彼の手によって生き返ったのである。さらにバッハの教会カンタータの楽団があらたに登場し、常に驚くべき音楽的驚異を明らかにし、すべての真面目な芸術家の想像力を強く刺激したのである。うわべだけの純粋に感覚的効果を計算しただけの曲の劇場効果で、ブラームスへの取り組みをいつまでも損ない続けたなら、巨匠の様式を技巧にゆがめ、亜流の運命であるが、彼から離れらない模倣者の一人になったはずである。バッハは、時間を超越して実現した彼の非個人性によって、ヘルツォーゲンベルクを自己に連れ戻し、自分の足で立たせ、その足で最後の人生において彼の目標に向かうことになる。最初に提案したアルフレッド・フォルクラント、それにフィリップ・シュピッタとフランツ・フォン・ホルシュタインの多面的教養と理想主義的な思想を持った3人の純粋な音楽家とともに、ハインリッヒは1875年1月31日にライプツィッヒ・バッハ・フェラインを設立し、フォルクラントがまもなくバーゼルの音楽監督に招聘されると、彼の芸術指導を引き継いだのである。フェラインが設立される前の1月23日には、81人の団員がアマリエ・ヨアヒムの参加を得て、トマス教会で教会カンタータを公演し、彼らの能力の最初の証を示したのである。そしてヘルツォーゲンベルクが指導した34回の公式公演のうち、プログラムに合唱作品以外にも合奏・室内楽も含まれていたのは、できる限り完全な演奏を通してバッハの知識を一般化するのが彼の目的であったからである。公式の芸術的使命以外にライプツィッヒ・バッハ・フェラインは慰めと希望を楽の音で広めるという私的な使命をも果たした。喜べる者とともに祝い、苦しめる者とともに嘆いたのである。フランツ・フォン・ホルシュタインの死の家では彼らの哀悼の歌が響きわたった。「神のより偉大なる栄光において(in majorem dei gloriam)」行われたことであり、団員にも指導者にも慈善行為を認めてもらいたいという意図はいささかもなかったのである。フェラインの歴史を記した人がユーモラスに報告している。「指揮者殿の金庫は大変逼迫していた。毎年秋の総会では彼の報酬は倍額になった。しかし最後の年には最初の年とほぼ同額を受け取っていたのである。計算の得意な人に計算してもらいたい。でも分厚いオルガン・パートで謝礼したり、ソリストには言い逃れをしたり、オペラの合奏団から人集めする等々の許可を彼は得ていた。」
ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクがフェラインの考え、配慮する頭脳であるとすれば、功績のあるフラウ・エリーザベトは血の循環をつかさどる心臓と名づけてよいであろう。ぐずぐずする団員を激励し、機嫌の悪い団員の気分を和らげ、元気のない団員を奮い立たせたのは彼女である。彼女は組織を一体化させ、疲れを知らぬ鉄のような元気には限界がないようであった。彼女は全員によき手本を示した。彼女は各声部を諳んじており、コーラスのポリホニーを正確に把握し、彼女の並外れた声でソプラノの主役をつとめるだけでなく、あるときはテノールを、あるときはアルトを助ける副指揮者であり、バスに意見することもあった。それでも合唱団がいつもうまくいくと限らなかったが、ときには「歌手全員が『霊感』という言葉では片付けられない何ものかに反応し、われを忘れる」――フラウ・フォン・エリーザベトはブラームスに書いている「この瞬間には各々が三人分の力を発揮し、一握りの弱いわたしたちがなにか賞賛に値することを産み出します。わたしはいつもハインツには感謝しています。彼は難しい音程をすべて彼らの頭に叩き込んでいます。」そして、彼女は1881年1月14日ブラームスに誇らしげに書き送っている。「今回で35回目のカンタータになり、わたしたちはまだ若いのです。――貴族試験の数を三つも多く超えたのです。」
ヘルツォーゲンベルク夫妻がライプツィッヒで確固たる地位を固めてから、ハインリッヒは、彼が熱烈に尊敬しているものの、これまで小パリのコンサート・ホールで特別扱いされていなかったブラームスを正式に顕彰することを考えたのである。ブラームスをしかるべく認知させるために彼の作品を演奏したかったのである。1873年5月に催されたマチネーで、彼はヘ短調ピアノ五重奏曲の演奏会――ピアノは夫人が演奏し――を催し、さらにブラームスを紹介するさらに一大行動に取りかかった。ブラームスは久しくライプツィッヒには来ていなかったし、後の作曲で第五楽章を加えたドイツ・レクイエムの公演は1869年2月にライネケに指揮を任せたのである。ゲバントハウスの聴衆の大方は彼の才能のこの偉大な発露を冷淡に受けとめ、主導的な評論家であるJ.シュフトに暗黙の同意をしたのである。シュフトはなにくわぬ様子でブラームスを哀れんでいる。ワーグナーやベルリオーズ、とくにリストが画期的に改革し前進させた自由な作曲、なかんずくリズミカルにして雄弁な作曲に到達しようとする勇気が彼にはないというのである。リーデルの協会が、1873年3月14日にレクイエムを公演し、11月21日の予告をしたが、――ゲバントハウスは13日の再演で彼の機先を制した――これらのことがライプツィッヒの聴衆にこの作品へのよい評価を吹き込むことになった。この頃、クララ・シューマンがゲバントハウスでニ短調ピアノ協奏曲を演奏したが、この時は1859年1月27日にやじられたときと異なり、この女流演奏家がとりわけ尊敬されていたせいもあり、喝采を受けたのである。次第にライプツィッヒでは、ブラームスにたいする過ちを償うべきだという考えが浸透し始めたのである。さらに彼がレクイエムでドイツの至るとこで勝ち取った成功で、彼を支持する声が高まり、聞き流すにはいかなくなったのである。さらにヘルマン・クレッチマーが、1870年以来続いている週間音楽新聞(Musikalische Wochenblatt)上の連載の一編で、彼の作品に立ち入った、専門的かつ好意的な見解で褒めたし、カール・ライネッケはゲバントハウスの管弦楽団の年金基金の理事にブラームスを大音楽会に招待するようにうながしたのである。ブラームスは躊躇せずにこの招待を受け、1874年1月29日ライプツィッヒにやってきた。1月30日から2月5日までの一週間、「音楽新聞」が書いたように、彼は完全にこの地を征服した。客は全ドイツ音楽協会の支部の夜の演奏会で歓迎を受け、そこでホルン・トリオ作品40、ピアノのための4つのバラード、シューマンの主題による変奏曲作品23、独唱曲以外に混声のためのマリアの歌作品22がクレッチマー指揮の下で演奏された。続いて2月1日ゲバントハウスで室内楽のマチネーが催され、そこでブラームスはヘンデルの主題による変奏曲とト短調四重奏曲作品24のピアノ部を演奏した。パウロ教会演奏会では「リナルド」作品50を指揮し、2月5日のゲバントハウスの臨時演奏会でハイドンの主題による管弦楽変奏曲作品56、アルト独唱のためのラプソディー(フラウ・ヨアヒム)、男声合唱と管弦楽作品53――二つは新曲であった――さらに彼自身の編曲による3曲のハンガリー舞曲を指揮した。さらにライネケと一緒に4手のピアノ曲に作曲された「愛の歌」作品52を演奏した。これに稀な美しさと芸術的構成を兼ね備えた四声、ペスチャ・ロイトナー、ヨアヒム、エルンスト、オイラが加わった。当然ながら、この日のヒーローであるブラームスは社交界でもてはやされた。フレーゲ家、フォン・ホルシュタイン家等々は競い合ってこの著名人をもてなしたのである。ブラームスの栄誉をたたえる昼食会や晩餐会では、彼は期待通りの、もてなしがいのある美食家であり、2月7日には好ましい思い出を残し旅立ったのである。
この機会にヘルツォーゲンベルク夫妻は彼といっそう親近感を抱くようになり、この体験を伝えたかったフラウ・エリーザベトは、一番関心のありそうなウィーンの友人のベルタ・ファーベルに報告している。「急いで申し上げます。あなたのブラームスは当地滞在中わたしたちに大変好ましい印象を与えてくれました。わたしたちは以前のブラームスとは見違えるようで、今回は人間ブラームスに非常な喜びを感じました。『柔弱な感じ』という風評がありましたが、たくましさを証明したブラームスにはそれもかえって好都合でした。有名になるということは岩礁のようなもので、多くの人はそこで難破しますが、それは彼にとって好意的、穏健で、親切な(少なくとも一般的な印象も同様でした)ものでした。彼の名声にはリヒアルト・ワーグナーを包んでいる近寄りがたい不謬性の雰囲気のようなものではありませんし、目標を達成した人、いい意味で自由に生きている人の健全で穏やかな雰囲気があります。彼がわたしたちと過ごした時間は、私たちライプツィッヒ人にはとても楽しいものでした。此処では、中途半端やお上品な凡庸が幅を利かせています。多かれ少なかれ何処でもですが、わたしたちには、健全で力量のある天才の羽ばたきが時には必要なのです。ブラームスが来たときにはわたしたちはそれを痛感しました。『草は再び立ち上がり、荒野が彼を呑み込んでしまうのだ。』あなたが近々彼に会われたら、ヘルツォーゲンベルク家とフォルクラント家からよろしくとお伝えください。それにわたしたち全員が作品60を待ち焦がれていると言っていることもね。」
この作品60は1873年から1874年の冬に完成されたアンダンテとフィナーレが付いたハ短調ピアノ四重奏曲であり、その第一楽章はデュッセルドルフ時代(1855年)にさかのぼる。これはブラームスのウェルテルの時代の記念であり、クララ・シューマンへの愛情が看取される。ブラームスはその一部をライプツィッヒ滞在中にピアノで新しくできた友人に聞かせたようである。フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクはこの深く心の琴線に触れるアンダンテがことのほか気に入り、ブラームスは後にこの楽章の自筆原稿を贈り物として彼女に進呈している。
ブラームスは、愛と芸術に捧げられた快適な共同生活のくつろいだ魅力で彼を虜にした幸せな友人の住居を後にして、孤独で侘しい、独身者の空虚な部屋に帰ってきた。迎えたのは、卑屈で悲しげな笑みを浮かべた、やつれて顔色の悪い年老いた家政婦であったが、このとき「青いビロードと金髪の女性の姿」は彼の目の前に浮かんでいたのである。
以後3年間、ブラームスはライプツィッヒにやって来て、ヘルツォーゲンベルク家に泊まった。彼は新しい角度からエリーザベトを知り、彼女は彼にいっそう良い印象を与えた。音楽の夕べで客を迎え、精神と芸術で社交界を魅了したこの優雅な女性は、すばらしい女主人に、買い物も料理も同時にやってのける、気配りのきく有能な主婦になっていたのである。ブラームスはいたずらに、「不器用に駝鳥狩をして」招待に抵抗し、彼女を無視しようとした。この誘惑に耐えられずに、「災いよ、われらに降りかかれ」と陽気な調子で叫んだ。「災い」はやってきたが、フンボルト・シュトラーセの家にとっても、以前は拒絶に慣れ、たまたま手にした幸運で手と心をひそかに暖めていた、この客人にとっても「幸い」となった。彼がライプツィッヒで第一交響曲を公演した1887年の1月に始まり、死に至るまで続いたエリーザベトとハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの友情をこの後に続く書簡が証明してくれる。書簡はますます強い関心で読まれ、何度も読まれるであろう。彼の芸術でしか、優しくて奥深い熱狂的興奮がわからない、ブラームスのしっかりとして、真に男らしく、時として近寄りがたくて頑なな性格は、畏敬の念を持って読まれるだろう。また読者はハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクにたいしては、彼の無私の誠実さには、感動と尊敬の念を抱くであろう。いかなることがあれ、己を超えた天才の偉大さに対する信念が揺るぐことがなかったのである。また、夫人は、才気ああふれ、優しく、謙虚であり、威厳があり、控えめであるが、批評の刀を身にまとった女神であり、こと芸術の問題においては、道徳の基本に根ざした確実な美意識にのみ訴えることなく、知識と経験による豊かで純粋な判断で専門家の判断を補った女性である。この夫人にたいするヘルツォーゲンベルクのうれしい驚きと愛情とが混じりあった共感にたいしても読者は同様の念を抱くはずである。精神性、深い感受性、高貴な信念、高い教養において同等のこの三者を結びつけたものは純粋に理想主義的な関心であり、それゆえ、物質的目的や配慮に根ざした結びつきよりも長続きし、実りあるものであった。天国的であり、地上の粉塵にまみれない女神であり、運命が彼らから奪い取ったものすべてに対する償いであった音楽、この音楽に対する熱烈な愛情で一致していたのである。ブラームスはこの女神を最愛の者として抱きしめ、エリーザベトはこの友人と夫の作品をわが子として愛し、ハインリッヒは肉体的・精神的苦しみの中で力づけ、活気を与えてくれる慰めを音楽に見出したのである。
1888年ハインリッヒが運動能力をひどく損なわれながらも一年半の病床から立ち上がったが、半ば回復した健康も喜んでいるわけにはいかなかった。今度は、自身病弱であった夫人が夫の介護で、絶え間ない混乱のなかで過労になり、遺伝性の心臓疾患の憂慮すべき症状を見せ、病の床に伏せったのである。こよなく愛した美しい世界との別れは、1885年フォン・クンバーランド公爵のグムンデンの山荘ミュールヴァンクで休養中に卒中で倒れた、高齢の父親のように楽なものではなかった。エリーザベトはサン・レモで死によって解放されるまで、1ヶ月と1週間もの苦しい期間を耐えなければならなかった。それでも彼女の最後の人生の喜びは音楽的であった。すなわち、ブラームスのト長調の弦楽五重奏曲作品111との知遇とヘルツォーゲンベルクのレクイエム作品72の公演であった。彼女はいよいよ深刻になる病気をおして夫とともにベルリンからライプツィッヒへの旅をしたのである。
1892年の1月17日には、死者を称える追悼式が、生前の彼女が友人たちと芸術家のパーティーに参加したヘドウィック・フォン・ホルシュタインの家で行われた。フラウ・フォン・ホルシュタインは、悲しみにくれ、フィエンツェに滞在しているハインリッヒに――エリーザベトの母親は1891年12月29日娘に先立って死んでいる――「あの場所に」と書き送っている。「彼女があなたの花冠の歌、あなたのセルビアの乙女の歌を歌ったあの場所にヴァッハが立っています。そして彼女のすばらしく美しい姿をよみがえらせてくれました。苦しみよりも彼女に会えた、ええ、理想的な女性に出会えた、という喜びに変わりました。彼女とご一緒したという感覚は消えてはおりません。彼女にお出ましいただき、感謝しておりますし、心から楽しませていただきました。私は改めて感謝いたします。あなたは彼女がこの会に出席することをお許しになりました。あなたも孤独ではありません。あなたはお分かりになりと思います。私の心の中、私の人生で、彼女とお付き合いをさせていただきます。彼女は決して埋葬されてはいません。彼女は毎日私の前に現れ、私のよき思い出とよき決断の中で生き続け、愛らしい言葉をかけてくれますでしょう。あなたには聞こえますか。みながどれほど彼女のことを語ったことでしょう。ヴァッハの朗読の後でも全員が賞賛しすぎることはないと思いました。みなが口々に彼女を祝福しました。」
心のこもった追悼の辞で、学者アドルフ・ヴァッハは詩人になった。まことに詩的な表現で、変容した彼女の完璧な人格にふれている。「私は、彼女の軽やかな金髪、明るく、限りなく愛らしく、神々しいまでの熱烈な表現、軽やかな身のこなし、これらはすべて最高に美しい内面の肖像であると思います。まことに偉大な巨匠の手によって制作された、微笑みかける芸術の聖女か処女天使のようでした。彼女の人格は純粋なハーモニーであり、豊かな音の響きであり、高貴な精神力の合奏音でした。美しさと感覚的な神のような啓示は彼女だけのものです。彼女の存在、生活、話、歌には、最高の貴族の印章が押されていました。彼女は神の手により現れたのです。生まれながらのものであり、学んでなった芸術家ではありません。彼女は成熟して聖職者になりました。驚異的な感受性と繊細さと正確な判断で真の芸術を受け入れ、作為的で偽りの芸術を拒否しました。いかなる芸術活動の領域にも感覚を閉ざすことはなく、本来語りえないものを語る、芸術のもっとも精神的で高尚な本質にも透徹しえたのであります。私はかくも美と善が等しく一体化した人格を見たことがありません。…彼女の心は純粋の方向に向かっていました。外面の輝き、世俗的虚栄、この世の財宝、これらは彼女には何の威力もありませんでした。卑しいものは彼女には無限に遠い存在でした。場合によっては、勇気と過激ともいえる情熱で善を擁護しましたが、それすら彼女を危機に導くことはありませんでした。彼女には計り知れない真実への愛がありました。彼女はそれを乱用して人を傷つける激情や辛辣に陥ることありませんでした。彼女の人間愛同様に、彼女に備わっていた美の法則が彼女をそれから守りました。彼女の正義観、私はあえて彼女の信義感といわせていただきますが、女性としては驚異的に築かれたものであります。彼女は自身が望むものと望まれるべきものとを混同しませんでした。…. すべての善の父への信頼に由来する善への信頼、そして最も強い精神の力、愛、これは探して求められるものではなく、永遠に終わることのないものであり、愛は掟の遂行であり、愛は世界を解放し、愛はその存在の核であることをわれわれは知っております。」
朗読の最後の言葉は、使徒パウロのコリント書簡を想起させる。ブラームスが「彼の四つの厳粛な歌」の終曲で熱狂した、神の愛と人間の愛へのあの荘重な賛美である。「信仰、希望、愛はいつまでも残る。しかし最も大いなるものは愛である。」これはエリーザベトの友が、忍び寄る死の夜の影と闘争し、永遠の吐息に身震いしながら、曲をつけた最後の言葉である。ロ長調アダージオの真紅の背景から、彼の聖女の金色の光輪に輝く頭が浮かび上がり、永遠に彼の目の前に、心の中に現れ、歌手たちの不滅の白鳥の歌に唱和して唇を動かしているかのようである。南の青き海がどよめくリビエラのさびしい墓地に、月桂樹、棕櫚、杉に囲まれ、オルガンの前に座る女性を表した白いレリーフ像が供えられた。ドナテロの厳粛な聖チェチリアが巨匠ヒルデブラントの手で可愛らしい女性像に変容したかのようである。楽器に耳を澄まして、思慮深く首をかしげた聖女の顔立ちには、みなが親しんだ、忘れえぬエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクの特徴がある。
彼の「慰霊祭(Totenfeier)」で、ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクは妻を失い、打ちひしがれた心の悲しみを歌い、失った妻のために感動的な音の記念碑をうち立てたのである。「牧師が埋葬の時に引用した聖書の言葉を福音教会の賛美歌と結びつけ、全体に統合し、その作品が、ブラームスのドイツ鎮魂曲の緩い構成とは対照的に、あらゆる素朴な解釈者にも容易に理解できるように、そのテキストから福音主義の教会カンタータを創り上げている。真に彼の心血を注いで書いた曲であり、技巧や才能ではなしえない生命のしるしがある(フリードリッヒ・シュピッタ:ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクと福音主義の教会音楽)。」 かのバッハ伝の著者の弟は、ヘルツォーゲンベルクの音楽の熱烈な支持者、擁護者であったが、ヘルツォーゲンベルクは彼への書簡の中で、苦悩は人を目覚めさせ、指導してくれる誠実な友であると呼んだ。この目覚めにより、以前は新鮮なメロディーがあふれ出ていたのに、半ば埋もれていた才能の泉が再び開かれ、そこから、なかんずく最上の「ドイツ・リード劇(Deutsche Liederspiel)」を創作したのである。そして彼はその泉の水を、一部は彼によって創造され、造形された現代的教会カンタータの新形式へと導いたのである。彼の精神で深く耕された土地から木が育ち、永遠の果実を育み、これらの曲は彼と多くの敬虔な聴衆の命の糧となった。ヘルツォーゲンベルクは深い精神性に充ちた形式の整った室内楽の様式において、愛すべき歌曲を壮大な合唱交響曲に構築し、聴衆は、適切な曲を集め、プロテスタント教会の礼拝に捧げられた新しき喜びを、現代音楽の貴重な宝であり、永遠に残る富と認識したのである。アッペンツェラーの高台にある彼の家は彼自身が設計して建て、芸術家でありかつ趣味人としての様式感覚で細部に至るまで内装を整えたのであるが、彼が夫人との最後の地上的結びつきをほとんど失った後は、フロイライン・ヘレーネ・ハウプトマンに家事を見てもらいながら、最後の八回の夏を地上的存在として過ごしたのである。フロイライン・ハウプトマンは(「彼女が居てくれれば、安心ですし、うまく行きます」とフラウ・フォン・ホルシュタインは書いている)、音楽の素養があり、以前トマス・カントールで、作曲家のモリッツ・ハウプトマンの娘であった。彼は毎年、芸術家や学者の仲間をここに招待したが、彼らは飾り気のないユーモア、伴侶により復活した創作意欲、客好きのホストの知識と芸術のあらゆる領域にわたる学識ある会話を楽しんだ。そして一連の宗教作品が生まれたが、彼の到達した芸術の頂点である。すなわち、典礼聖歌作品81、四声の重唱モテット作品102、四声、五声、八声の重唱モテット作品103、さらに三つの教会オラトリオ、「キリストの誕生(Die Geburt Christi)作品90」、二部作、洗足木曜日、聖金曜日のための受難曲作品93、「収穫祭(Erntefeier)」作品104、これらは彼の音楽的創作活動の王冠である。彼がアベントロート(Abendroth)」から――彼はこの家をこう名付けた――、ボーデン湖と緑の山並みを喜びに充ちた平安な心で見つめ、太陽の光で輝く美景は、最後の息を引き取るまで打ち続けた彼の心臓を暖めたのである。彼はブラームスの死後3年以上生き続け、1900年10月9日に、再発した激痛を伴う病を癒すために訪れたヴィースバーデンで死去した。ロマンチックなヴィースバーデンの共同墓地にある彼の墓はヒルデブラントによるレリーフで飾られている。
生きているときは堅く結ばれていた三人は互いに遠く離れて安らかに眠っている。彼らの魂は互いに結ばれて生き続け、この本に収録された手紙の中で、彼らといつも再会を祝えるのは、後世の人にとって喜びである。
ウィーン、1906年10月
マックス・カルベック
1876年
1.ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
アウスゼー、1876年8月1日
親愛なるヘル・ブラームスへ
私が今回お送りしますのは、ブラームスの主題で作曲された最初の変奏曲(1)であり、したがいまして、あなたの蒐集品のなかでも珍品中の珍品になると私が信ずるものであります。あなたの傑出したテーマに加えて、一度でよいから最初の人物になりたいという大いなる誘惑にかられました。私の展開においてすべての可能性を引き出したわけでは決してありませんが、あなたが全面的に否定されないことを願うものであります。
私がライプツィッヒを出る前には、あなたがカンタータ「キリストは死の絆につきたまえり(Christ lag in Todesbanden)」の編曲をわれらのバッハ・フェラインの出版物に掲載されるおつもりか、確かめることができませんでした(2)。あなたにはこの件をよろしくご賢察の上、ご承諾くだされば、われわれとしては幸甚に存ずる次第であります。
ご存じのようにわれわれをうるさくつけて回る一味がおりますが、われわれが結束するならば、連中をやがて黙らせることができると思います(3)。それでも彼らがシュピッタを素人(4)、フォルクランド(5)や私を熱意だけの無能者呼ばわりを続けるとき、彼らの面前にブラームスの名前を突きつけられたらと思います。このピアノ編曲の出版のことでご面倒をおかけしないつもりであり、完成いたしましたら、あなたに提出させていただきます。
私は光栄にもあの傑作へ調ミサ曲の編曲の作業に没頭中であります。昨年の冬、フォルクラントはマタイ受難曲のオルガン部を書くという容易ならざる仕事を引き受けました。多くの合唱団がこの仕事に賛同してくれるようになれば、遠からぬ未来に、長く残る成果を振り返ることができると期待しております。もちろん前提としては、リーター・ビーダーマンの会社がこの出版事業の停止に追いこまれないことです。われわれの方法が承認されれば、この事業に付随する労苦はとるに足らないものであります。
私たちがいるところには、バイロイト報告(7)を掲載した音楽紙も届かず、静かで快適な生活を送っております。リューゲン島も同様の地理的利点に恵まれておりので、ジムロック(8)がやがて大きな荷物(9)を送ってくれるものと期待しております。
あなたが私の音楽の巻物を開かれたならば、しばらくは、ご自身の曲ではありますが、一風変わった、見慣れない作曲を見つけられることと存じます。アストール(10)がこの作品を引き受けてくれたのは明らかに、ジムロックを表紙で仰天させてやろうという悪い魂胆がありました。見本市(11)にくる近眼の連中は、大きな活字で印刷されたヨハネス・ブラームスに気を取られ、その下の小さい文字には気が付かないでしょうから、その分売れるでしょう。もちろん私にとっても、アストールにとっても愉快であります。これは冗談です。しかし、あなたが中身を眺められることを考えると、私はもう愉快ではありえません。一方あなたには娯楽が始まります。おそらくは?この深刻な疑問符で書面を括らせていただきます。存分の裁きを覚悟いたしております。
まぎれもなく誠実なるあなたのハインリッヒ・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)ヘルツォーゲンベルクは「ピアノのためのブラームスの主題による変奏曲作品23」(デュエット)をリーター・ビーダーマンから出版した。この主題は歌曲作品7、第5曲の“Mei Mutter mag mi net“の主題である。
(2)ライプツィッヒ・バッハ・フェライン(Leipzig Bachverein)はハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(Heinrich von Herzogenberg)、フィリップ・シュピッタ(Philipp Spitta)、フランツ・フォン・ホルシュタイン(Franz von Holstein)、アルフレッド・フォルクラント(Alfred Volksland)の4人により結成され、バッハの宗教カンタータのピアノ版を出版した。この編曲の責任者はフォルクラント、ヘルツォーゲンベルクとビュルナー(Wüllner)である。
(3)古い合唱曲の伴奏の扱いをめぐり、ロベルト・フランツ(Robert Franz)、フリードリッヒ・クリサンダー(Friedrich Chrysander)、シュピッタ、ヘルマン・クレッチマー(Hermann Kretzschmar)、その他が新聞や論文を通して行われた激烈な論争を指している。
(4)フィリップ・シュピッタ(Philip Spitta, 1841-1894)、有名なバッハ伝の著者。1875年までライプツィッヒのニコライ・ギムナジュウムの教授で、その後ベルリン大学の音楽史の教授。
(5)アルフレッド・フォルクラント(Alfred Volkland, 1841-1905)、バーゼルの音楽監督でバーゼル大学の名誉博士。1875年までライプツィッヒのオイテルペ・コンサートの指揮者。
(6)このカンタータの編曲とはブラームスがウィーンの楽友協会のコンサートを指揮したときに書いたもので、1873年3月23日にウィーンの聴衆に新作として発表したが、それを功績とはしなかった。ゲオルク・ヘンシェルは1876年のリューゲン島の日記で、「ブラームスはバッハ・フェラインの編曲を傍らにおいて非実用的な編曲を指摘した。『ピアノ版は演奏可能でなくてはいけない。この楽器に合うように書かれるべきである』と彼は言った。『このことはすべてのパートを導くことよりはるかに大事なことなのだ』。」
(7)ワーグナーの「ニーベルンゲンの指輪」は1876年の夏バイロイトで初演された。
(8)フリッツ・ジムロック(Fritz Simrock,1837-1901)ブラームスの専属出版者。
(9)ブラームスは6月15日にリューゲン島に行き、サスニッツにこもり、ハ単調交響曲の仕上げをしていた。
(10)エドムント・アストール(Edmond Astor)、ライプツィッヒの音楽出版者、J.メルキォール・リーター・ビーダーマン(J. Melchior Rieter-Biedermann)の娘婿であり、義父の死後1849年創設のヴィンテル・チュールの社長になった。
(11)見本市はライプツィッヒでは年に3回開かれ、外部からの見本市客が多いので、一流のホテルは期間中値段を倍にしている。見本市客には好ましからざる人物が多いので、この言葉には軽蔑的な意味がある。
2.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
アウスゼー、1876年8月1日(1)
親愛なるヘル・ブラームスへ
お友達のベルタ(2)から伺いましたけど、あなたから親切な便りがあるのですって。それからハインリッヒの「ブラームスの主題による変奏曲」の楽譜を見てみたいとおっしゃったのですか。わたしはもう嬉しくって、彼女の言うことがいっぺんには信じられませんでした。ハインリッヒはこの変奏曲であなたに迷惑をかけたくないといっていました。聞こえるのは海原の怒涛と岸を打つ波の音だけという、お好みの孤独な別荘におられるのに、こんなに単調でおとなしい音楽は歓迎されないだろうというのです。でもあなたの思いやりのあるご希望を聞いて事態は変わりました。あなたがこの作品を完全に否定されるとは思いたくないですけど、でもご不満でしたら、遠慮なく、おっしゃってください。雄鹿が谷川を慕って喘ぐように、ハインリッヒも手厳しい批評であれ、気休めの批評であれ、率直な批評を慕って喘ぐことになると思います。
サスニッツでは快適な日々を送っていらっしゃることと推察いたします。それはあなたにとってもわたしたちにとってもいいことですわ。快適であれば、お仕事もはかどるでしょうし、わたしたちはあなたの努力の成果をお待ちできますものね。
サスニッツでは、灰色のビーフとスターチとヴァニラでこしらえた、なんともいいようのないグジャグジャのプッディングしか出てこなかったというお話を覚えています。でもあなたはきっとそんなのには無頓着でしょうね(3)。とってもつらい経験をしたある女の人から聞いたのですが、最後には自分の部屋でこっそりゆで卵か、目玉焼きの毎日だったそうですよ。あなたももっと追い詰められたら、同じようになさればと思ってこのお話をしました。ここではわたしたちの生活は悪くありません。川鱒と鮭は豊富にあります。お値段がすごく高くて一度も食べていませんけど。でもカツレツやベーコン・ケーキなら手が届きます。あなたのお知り合いのウィーンからいらしたベルタからは、夕食用に素敵なミート・プディングを時々送ってもらいます。それに、お宅を伺うときにはいつも、天下一品のアウスゼー・ブランドのレープクーヘンを持たせてくれます。ですからわたしはよくお宅に伺っては、女にしかできない芸当ですけど、たあいもないお喋りを千と一つもしています。わたしは、ベルタよりは大人だと思っていますけど、ずっと仲良くお付き合いしています。
ベルタは可哀想に突然亡くなられたお父さん(4)のことでつらい思いをしています。この方のお父さんはどの点からみても親子の関係では傑出した方でした。でも今は、お母さんのことを思って元気そうに振る舞い、もっぱらお母さんを慰めることに専念しておられます。
まあどうしてこんなに長い手紙になったのでしょう。作法を知らないとは思わないでくださいね。そう思われても、ベルタのせいにしてください。
最後になりますが、ライプツィッヒ訪問を考えられたことはありませんか。この前はそんなにいやな思いはなさらなかったはず。ご存知のように、忌々しいフィリシテ人もいますけど、あなたを尊敬するお友達は多数います。
また訪問されるときには、ぜひお願いしたいことがありますけど。ホテル・ハウフェはやめて、ヘルツォーゲンベルク家にお泊まりください。ベッドはハウフェと同じぐらい上等、コーヒーはずっとおいしいですし、すごく広いとはいえませんけど、まずまずの広さの二部屋、ベッド・カバーは絹の手触りで、灰皿は数え切れないほどありますし、何よりも平安と静けさをお約束できますわ。そしてハウフェの建物のように金メッキや彫刻もありませんし、絢爛豪華とはいきませんが、われたしたちはそれに対抗して、あなたがわが家では、しごく快適に、憂い事もなく、過ごせるようにいたします。そしてあなたの来訪がわたしたちにとってどんなに喜びであるかをご確認頂けます。ぜひ考えてみてください。わたしたちは現在フンボルト・シュトラーセに住んでいます。カイル法律事務所のすぐ裏です。ゲバントハウスの理事の皆さん(5)を訪問なさるにはすごく便利です。
では、もうここでやめなくては。さようなら親愛なるブラームス様。わが家訪問の件よろしくお考えくださいませ。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)夫婦が同じ日に互いに気づかずに手紙を書き、二人ともブラームスに一部ずつ送ったことは明白である。
(2) フラウ・ベルタ・ファーベル(Frau Bertha Faber)、ウィーンの福音派の牧師グスタフ・ポルブスツキー博士(Gustav Porubszky)の娘、アルトゥール・ファーベル(Arthur Faber)の妻。ハンブルクの女声合唱団時代(1859-1861)以来のブラームスの友人 。
(3)彼女は少し皮肉を言っている。ブラームスは食事には無頓着で知られていた。
(4)1876年7月17日死去。
(5)ブラームスはいかなる儀式も嫌うことで知られており、おそらく生涯一度も表敬訪問をしていないはずである。
3.ブラームスからハインリッヒとエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
ハンブルク、1876年8月20日
親愛なる友へ
お送りいただきました贈り物に対しお二人には心から感謝いたします。あなたの変奏曲をみなに宣伝しようかとも思います。自分の歌がかくも有効に人の精神を引きつけることを知り、大変満足しております。テーマに選ばれたメロディーに愛着を持っておられるものと推察いたします。この愛着はおそらくご夫婦が共有されているものでしょう。
私の感謝で始まり、期待されるより早く批評が終わったとしてもお許しください。このデュエットを開き、想像で弾いてみるときには、すらりとして、青のビロードを身にまとった金髪の女性が私の右に座っていることを(1)ありありと思い浮かべてしまうので、どうして無関心でありえましょう。
これ以上言うと、ご夫婦のいずれかを怒らせることになるでしょう。
でも、この変奏曲を演奏するよう努力はいたします。音楽が複雑であるときには、デュエットほど読みづらいものはありません。したがって、私がふたたびあなた方とお話しできる機会があり、賞賛以外に語ることがあるとすれば、あなたにはまえもって、私の意見を傾聴して、正しい考え方を持っていただきたいと思います(2)。私は変奏曲一般について述べたいことがあります。たとえば、私は変奏曲を、幻想変奏曲、あるいはこの形式による多くの現代作品をどう呼ぼうとも、それらと区別してほしいと思っています。私はこの変奏曲形式に格別な愛着をもっており、この形式はわれわれの才能とエネルギーのはけ口を提供します。
ベートーベンは異常な厳格さでこの曲を展開し、彼の変奏曲をVeränderungenと(3)呼びました。その後のシューマン、ヘルツォーゲンベルク、ノッテボーム(4)は大いに違います。私はもちろんこれらの形式や音楽に異を唱えるものではありません。それぞれの性格に合うように、名前で区別してほしいと思います。
もしサスニッツのメニューを同封したら、奥さんは仰天され、羨むことでしょう。その点に関して困ることはありませんし、ピアノにも不自由していません。
私はカンタータの編曲には気が進みません。バッハのピアノ編曲は大変難しい仕事です。ピアノ編曲がコーラスの練習という実用目的のためであるのか、あるいは、水準の高いアマチュアのためであるのか、私は解答を得ていません。ペータース(5)と比較してリーターの態度は理解しかねます。
私はルツェルンで開かれる魅力的なパーティーを耳にしました。心をそそるものです。フラウ・シューマン(6)から、あるいは、フォルクランド氏からすでに朗報を聞かれるかしれませんが、彼女自身があなたの変奏曲を演奏されます。
あなた方ご夫婦に心からの挨拶とレープクーヘンのご隣人にもよろしくお伝えください。
誠実なるあなたのJoh.ブラームスより
注
(1)ブラームスはこの前のライプツィッヒ滞在中フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクとしばしばデュエットを演奏した。
(2)ヘルツォーゲンベルクの作品は結局ブラームスの気には入らなかった。
(3)「ディアベリの主題による33の変奏曲(33 Veränderungen über einen Walzer von A. Diabelli )、作品120」
(4)グスタフ・ノッテボーム(Gustav Nottebohm, 1817-1882)は、ウィーンの学者肌の音楽家であり、ベートーベンとシューベルトのテーマ別のカタログを作成し、「ベートベニアーナ」と「ノイ・ベートベニアーナ」の著者であり、その該博な歴史的・理論的知識でブラームスの非常な尊敬を受けていた。これはノッテボームの「バッハの主題による変奏曲」を指しており、ブラームスは作曲者としばしば演奏している。
(5)すでに出版され、より実用的なペータース版と比べて、ブラームスはリーター・ビーダーマンの版は良くないと考えた。事実その通りであることが証明され、リーターが出版したカンタータはたった5曲であった。
(6)クララ・シューマン(Clara Schumann,1819-1896)。作曲家ロベルト・シューマン(Robert Schumann)の妻で有名なピアニストであり、ブラームスとの親密な関係は1853年にさかのぼる。
4.ブラームスからヘルツォーゲンベルク夫妻に
ウィーン、1876年12月
親愛なる友人たちへ
私は不器用に駝鳥狩りをしております(1)。まことにお恥ずかしいかぎりです。私はあなたがたの親切に甘えまいと心に誓いました。しかし、私のペンが「いいえ」と書くことを拒んでおります。さてあなた方の催促で私は混乱しております。
でも私は非常に早い時期にそちらに到着し、土曜日までは滞在する予定ですよ。それに奥さんは私がサスニッツで鍛えられ、逞しくなったと考えておられるようですが、奥さんにはリューゲンの本当の状態が分かっていません。それでは、災いよ、われらの頭上に降りかかれ。 コンサートの三日前から大汗をかいて、カミルレ茶を飲み始めます。大失敗の(ゲバントハウスで)後自殺を試みる等々。怒り狂った作曲家の行状の数々をご覧になることでしょう。
このたわごとをお許しください。今日は手紙をたくさん書きすぎました。万一の場合にそなえて、お手紙を頂ければ大変幸いです。取り急ぎお知らせします。
J.ブラームス
注
(1)彼は招待に返事をしていなかったのである。
アウスゼー、1876年8月1日
親愛なるヘル・ブラームスへ
私が今回お送りしますのは、ブラームスの主題で作曲された最初の変奏曲(1)であり、したがいまして、あなたの蒐集品のなかでも珍品中の珍品になると私が信ずるものであります。あなたの傑出したテーマに加えて、一度でよいから最初の人物になりたいという大いなる誘惑にかられました。私の展開においてすべての可能性を引き出したわけでは決してありませんが、あなたが全面的に否定されないことを願うものであります。
私がライプツィッヒを出る前には、あなたがカンタータ「キリストは死の絆につきたまえり(Christ lag in Todesbanden)」の編曲をわれらのバッハ・フェラインの出版物に掲載されるおつもりか、確かめることができませんでした(2)。あなたにはこの件をよろしくご賢察の上、ご承諾くだされば、われわれとしては幸甚に存ずる次第であります。
ご存じのようにわれわれをうるさくつけて回る一味がおりますが、われわれが結束するならば、連中をやがて黙らせることができると思います(3)。それでも彼らがシュピッタを素人(4)、フォルクランド(5)や私を熱意だけの無能者呼ばわりを続けるとき、彼らの面前にブラームスの名前を突きつけられたらと思います。このピアノ編曲の出版のことでご面倒をおかけしないつもりであり、完成いたしましたら、あなたに提出させていただきます。
私は光栄にもあの傑作へ調ミサ曲の編曲の作業に没頭中であります。昨年の冬、フォルクラントはマタイ受難曲のオルガン部を書くという容易ならざる仕事を引き受けました。多くの合唱団がこの仕事に賛同してくれるようになれば、遠からぬ未来に、長く残る成果を振り返ることができると期待しております。もちろん前提としては、リーター・ビーダーマンの会社がこの出版事業の停止に追いこまれないことです。われわれの方法が承認されれば、この事業に付随する労苦はとるに足らないものであります。
私たちがいるところには、バイロイト報告(7)を掲載した音楽紙も届かず、静かで快適な生活を送っております。リューゲン島も同様の地理的利点に恵まれておりので、ジムロック(8)がやがて大きな荷物(9)を送ってくれるものと期待しております。
あなたが私の音楽の巻物を開かれたならば、しばらくは、ご自身の曲ではありますが、一風変わった、見慣れない作曲を見つけられることと存じます。アストール(10)がこの作品を引き受けてくれたのは明らかに、ジムロックを表紙で仰天させてやろうという悪い魂胆がありました。見本市(11)にくる近眼の連中は、大きな活字で印刷されたヨハネス・ブラームスに気を取られ、その下の小さい文字には気が付かないでしょうから、その分売れるでしょう。もちろん私にとっても、アストールにとっても愉快であります。これは冗談です。しかし、あなたが中身を眺められることを考えると、私はもう愉快ではありえません。一方あなたには娯楽が始まります。おそらくは?この深刻な疑問符で書面を括らせていただきます。存分の裁きを覚悟いたしております。
まぎれもなく誠実なるあなたのハインリッヒ・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)ヘルツォーゲンベルクは「ピアノのためのブラームスの主題による変奏曲作品23」(デュエット)をリーター・ビーダーマンから出版した。この主題は歌曲作品7、第5曲の“Mei Mutter mag mi net“の主題である。
(2)ライプツィッヒ・バッハ・フェライン(Leipzig Bachverein)はハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(Heinrich von Herzogenberg)、フィリップ・シュピッタ(Philipp Spitta)、フランツ・フォン・ホルシュタイン(Franz von Holstein)、アルフレッド・フォルクラント(Alfred Volksland)の4人により結成され、バッハの宗教カンタータのピアノ版を出版した。この編曲の責任者はフォルクラント、ヘルツォーゲンベルクとビュルナー(Wüllner)である。
(3)古い合唱曲の伴奏の扱いをめぐり、ロベルト・フランツ(Robert Franz)、フリードリッヒ・クリサンダー(Friedrich Chrysander)、シュピッタ、ヘルマン・クレッチマー(Hermann Kretzschmar)、その他が新聞や論文を通して行われた激烈な論争を指している。
(4)フィリップ・シュピッタ(Philip Spitta, 1841-1894)、有名なバッハ伝の著者。1875年までライプツィッヒのニコライ・ギムナジュウムの教授で、その後ベルリン大学の音楽史の教授。
(5)アルフレッド・フォルクラント(Alfred Volkland, 1841-1905)、バーゼルの音楽監督でバーゼル大学の名誉博士。1875年までライプツィッヒのオイテルペ・コンサートの指揮者。
(6)このカンタータの編曲とはブラームスがウィーンの楽友協会のコンサートを指揮したときに書いたもので、1873年3月23日にウィーンの聴衆に新作として発表したが、それを功績とはしなかった。ゲオルク・ヘンシェルは1876年のリューゲン島の日記で、「ブラームスはバッハ・フェラインの編曲を傍らにおいて非実用的な編曲を指摘した。『ピアノ版は演奏可能でなくてはいけない。この楽器に合うように書かれるべきである』と彼は言った。『このことはすべてのパートを導くことよりはるかに大事なことなのだ』。」
(7)ワーグナーの「ニーベルンゲンの指輪」は1876年の夏バイロイトで初演された。
(8)フリッツ・ジムロック(Fritz Simrock,1837-1901)ブラームスの専属出版者。
(9)ブラームスは6月15日にリューゲン島に行き、サスニッツにこもり、ハ単調交響曲の仕上げをしていた。
(10)エドムント・アストール(Edmond Astor)、ライプツィッヒの音楽出版者、J.メルキォール・リーター・ビーダーマン(J. Melchior Rieter-Biedermann)の娘婿であり、義父の死後1849年創設のヴィンテル・チュールの社長になった。
(11)見本市はライプツィッヒでは年に3回開かれ、外部からの見本市客が多いので、一流のホテルは期間中値段を倍にしている。見本市客には好ましからざる人物が多いので、この言葉には軽蔑的な意味がある。
2.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
アウスゼー、1876年8月1日(1)
親愛なるヘル・ブラームスへ
お友達のベルタ(2)から伺いましたけど、あなたから親切な便りがあるのですって。それからハインリッヒの「ブラームスの主題による変奏曲」の楽譜を見てみたいとおっしゃったのですか。わたしはもう嬉しくって、彼女の言うことがいっぺんには信じられませんでした。ハインリッヒはこの変奏曲であなたに迷惑をかけたくないといっていました。聞こえるのは海原の怒涛と岸を打つ波の音だけという、お好みの孤独な別荘におられるのに、こんなに単調でおとなしい音楽は歓迎されないだろうというのです。でもあなたの思いやりのあるご希望を聞いて事態は変わりました。あなたがこの作品を完全に否定されるとは思いたくないですけど、でもご不満でしたら、遠慮なく、おっしゃってください。雄鹿が谷川を慕って喘ぐように、ハインリッヒも手厳しい批評であれ、気休めの批評であれ、率直な批評を慕って喘ぐことになると思います。
サスニッツでは快適な日々を送っていらっしゃることと推察いたします。それはあなたにとってもわたしたちにとってもいいことですわ。快適であれば、お仕事もはかどるでしょうし、わたしたちはあなたの努力の成果をお待ちできますものね。
サスニッツでは、灰色のビーフとスターチとヴァニラでこしらえた、なんともいいようのないグジャグジャのプッディングしか出てこなかったというお話を覚えています。でもあなたはきっとそんなのには無頓着でしょうね(3)。とってもつらい経験をしたある女の人から聞いたのですが、最後には自分の部屋でこっそりゆで卵か、目玉焼きの毎日だったそうですよ。あなたももっと追い詰められたら、同じようになさればと思ってこのお話をしました。ここではわたしたちの生活は悪くありません。川鱒と鮭は豊富にあります。お値段がすごく高くて一度も食べていませんけど。でもカツレツやベーコン・ケーキなら手が届きます。あなたのお知り合いのウィーンからいらしたベルタからは、夕食用に素敵なミート・プディングを時々送ってもらいます。それに、お宅を伺うときにはいつも、天下一品のアウスゼー・ブランドのレープクーヘンを持たせてくれます。ですからわたしはよくお宅に伺っては、女にしかできない芸当ですけど、たあいもないお喋りを千と一つもしています。わたしは、ベルタよりは大人だと思っていますけど、ずっと仲良くお付き合いしています。
ベルタは可哀想に突然亡くなられたお父さん(4)のことでつらい思いをしています。この方のお父さんはどの点からみても親子の関係では傑出した方でした。でも今は、お母さんのことを思って元気そうに振る舞い、もっぱらお母さんを慰めることに専念しておられます。
まあどうしてこんなに長い手紙になったのでしょう。作法を知らないとは思わないでくださいね。そう思われても、ベルタのせいにしてください。
最後になりますが、ライプツィッヒ訪問を考えられたことはありませんか。この前はそんなにいやな思いはなさらなかったはず。ご存知のように、忌々しいフィリシテ人もいますけど、あなたを尊敬するお友達は多数います。
また訪問されるときには、ぜひお願いしたいことがありますけど。ホテル・ハウフェはやめて、ヘルツォーゲンベルク家にお泊まりください。ベッドはハウフェと同じぐらい上等、コーヒーはずっとおいしいですし、すごく広いとはいえませんけど、まずまずの広さの二部屋、ベッド・カバーは絹の手触りで、灰皿は数え切れないほどありますし、何よりも平安と静けさをお約束できますわ。そしてハウフェの建物のように金メッキや彫刻もありませんし、絢爛豪華とはいきませんが、われたしたちはそれに対抗して、あなたがわが家では、しごく快適に、憂い事もなく、過ごせるようにいたします。そしてあなたの来訪がわたしたちにとってどんなに喜びであるかをご確認頂けます。ぜひ考えてみてください。わたしたちは現在フンボルト・シュトラーセに住んでいます。カイル法律事務所のすぐ裏です。ゲバントハウスの理事の皆さん(5)を訪問なさるにはすごく便利です。
では、もうここでやめなくては。さようなら親愛なるブラームス様。わが家訪問の件よろしくお考えくださいませ。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)夫婦が同じ日に互いに気づかずに手紙を書き、二人ともブラームスに一部ずつ送ったことは明白である。
(2) フラウ・ベルタ・ファーベル(Frau Bertha Faber)、ウィーンの福音派の牧師グスタフ・ポルブスツキー博士(Gustav Porubszky)の娘、アルトゥール・ファーベル(Arthur Faber)の妻。ハンブルクの女声合唱団時代(1859-1861)以来のブラームスの友人 。
(3)彼女は少し皮肉を言っている。ブラームスは食事には無頓着で知られていた。
(4)1876年7月17日死去。
(5)ブラームスはいかなる儀式も嫌うことで知られており、おそらく生涯一度も表敬訪問をしていないはずである。
3.ブラームスからハインリッヒとエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
ハンブルク、1876年8月20日
親愛なる友へ
お送りいただきました贈り物に対しお二人には心から感謝いたします。あなたの変奏曲をみなに宣伝しようかとも思います。自分の歌がかくも有効に人の精神を引きつけることを知り、大変満足しております。テーマに選ばれたメロディーに愛着を持っておられるものと推察いたします。この愛着はおそらくご夫婦が共有されているものでしょう。
私の感謝で始まり、期待されるより早く批評が終わったとしてもお許しください。このデュエットを開き、想像で弾いてみるときには、すらりとして、青のビロードを身にまとった金髪の女性が私の右に座っていることを(1)ありありと思い浮かべてしまうので、どうして無関心でありえましょう。
これ以上言うと、ご夫婦のいずれかを怒らせることになるでしょう。
でも、この変奏曲を演奏するよう努力はいたします。音楽が複雑であるときには、デュエットほど読みづらいものはありません。したがって、私がふたたびあなた方とお話しできる機会があり、賞賛以外に語ることがあるとすれば、あなたにはまえもって、私の意見を傾聴して、正しい考え方を持っていただきたいと思います(2)。私は変奏曲一般について述べたいことがあります。たとえば、私は変奏曲を、幻想変奏曲、あるいはこの形式による多くの現代作品をどう呼ぼうとも、それらと区別してほしいと思っています。私はこの変奏曲形式に格別な愛着をもっており、この形式はわれわれの才能とエネルギーのはけ口を提供します。
ベートーベンは異常な厳格さでこの曲を展開し、彼の変奏曲をVeränderungenと(3)呼びました。その後のシューマン、ヘルツォーゲンベルク、ノッテボーム(4)は大いに違います。私はもちろんこれらの形式や音楽に異を唱えるものではありません。それぞれの性格に合うように、名前で区別してほしいと思います。
もしサスニッツのメニューを同封したら、奥さんは仰天され、羨むことでしょう。その点に関して困ることはありませんし、ピアノにも不自由していません。
私はカンタータの編曲には気が進みません。バッハのピアノ編曲は大変難しい仕事です。ピアノ編曲がコーラスの練習という実用目的のためであるのか、あるいは、水準の高いアマチュアのためであるのか、私は解答を得ていません。ペータース(5)と比較してリーターの態度は理解しかねます。
私はルツェルンで開かれる魅力的なパーティーを耳にしました。心をそそるものです。フラウ・シューマン(6)から、あるいは、フォルクランド氏からすでに朗報を聞かれるかしれませんが、彼女自身があなたの変奏曲を演奏されます。
あなた方ご夫婦に心からの挨拶とレープクーヘンのご隣人にもよろしくお伝えください。
誠実なるあなたのJoh.ブラームスより
注
(1)ブラームスはこの前のライプツィッヒ滞在中フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクとしばしばデュエットを演奏した。
(2)ヘルツォーゲンベルクの作品は結局ブラームスの気には入らなかった。
(3)「ディアベリの主題による33の変奏曲(33 Veränderungen über einen Walzer von A. Diabelli )、作品120」
(4)グスタフ・ノッテボーム(Gustav Nottebohm, 1817-1882)は、ウィーンの学者肌の音楽家であり、ベートーベンとシューベルトのテーマ別のカタログを作成し、「ベートベニアーナ」と「ノイ・ベートベニアーナ」の著者であり、その該博な歴史的・理論的知識でブラームスの非常な尊敬を受けていた。これはノッテボームの「バッハの主題による変奏曲」を指しており、ブラームスは作曲者としばしば演奏している。
(5)すでに出版され、より実用的なペータース版と比べて、ブラームスはリーター・ビーダーマンの版は良くないと考えた。事実その通りであることが証明され、リーターが出版したカンタータはたった5曲であった。
(6)クララ・シューマン(Clara Schumann,1819-1896)。作曲家ロベルト・シューマン(Robert Schumann)の妻で有名なピアニストであり、ブラームスとの親密な関係は1853年にさかのぼる。
4.ブラームスからヘルツォーゲンベルク夫妻に
ウィーン、1876年12月
親愛なる友人たちへ
私は不器用に駝鳥狩りをしております(1)。まことにお恥ずかしいかぎりです。私はあなたがたの親切に甘えまいと心に誓いました。しかし、私のペンが「いいえ」と書くことを拒んでおります。さてあなた方の催促で私は混乱しております。
でも私は非常に早い時期にそちらに到着し、土曜日までは滞在する予定ですよ。それに奥さんは私がサスニッツで鍛えられ、逞しくなったと考えておられるようですが、奥さんにはリューゲンの本当の状態が分かっていません。それでは、災いよ、われらの頭上に降りかかれ。 コンサートの三日前から大汗をかいて、カミルレ茶を飲み始めます。大失敗の(ゲバントハウスで)後自殺を試みる等々。怒り狂った作曲家の行状の数々をご覧になることでしょう。
このたわごとをお許しください。今日は手紙をたくさん書きすぎました。万一の場合にそなえて、お手紙を頂ければ大変幸いです。取り急ぎお知らせします。
J.ブラームス
注
(1)彼は招待に返事をしていなかったのである。
1877年
5.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年1月3日
親愛なるヘル・ブラームスへ
私たちはあなたのお手紙から、わが家にお泊りになるおつもりと推察します。私たちにとって大変な朗報です。フンボルト・シュトラーセ24の2階にあるわが家は、こもるには都合がよく、見本市の客であふれるホテルよりは、静かにくつろいでいただけます。お泊まりいただく部屋は、ちょうどいい場所にあって、ご都合の悪いときには、初対面の人はもちろんのこと、私たちにも顔を会わせずにすみます。もっとも私たち夫婦にはこの特権をあまり行使されないようお願いします。あなたの到着の日時と経由地はドレスデンかエゲールか、葉書でお知らせください。ジムロックはあなたの交響曲をいつ出版する予定ですか(1)。演奏会の前であることを希望しますが。
できる限り早く(もし可能ならば今すぐにも)から、できる限り長期間お泊まりください。
フラウ・シューマンがお友だちのフラウ・レポックかフラウ・ライモンド・ヘルテル(2)の家に泊まられるとしたら、あなたはフラウ・シューマンの近くに泊まれることになります。フレーゲ夫妻は今回彼女をお泊めできません。わかっている事は以上です。
乱筆と薄い便箋をお詫びします。取り急ぎお知らせします。
あなたの誠実なる友人ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)交響曲第一番ハ短調 作品68は1877年にジムロックが出版している。ブラームスは1月18日のゲバントハウスで指揮する交響曲の最終リハーサルのために1月14日に到着している。交響曲は非常に好評であった。同時に、彼はオーケストラによる「ハイドンの主題による変奏曲」を指揮し、ゲオルク・ヘンシェルによる彼の歌曲の独唱の伴奏をした。2日後には、ゲバントハウス室内楽演奏会で、ハ短調四重奏曲作品60のピアノ部を演奏した。
(2)ブライトコプフ&ヘルテル(Breitkopf und Härtel)社の社長夫人。
(3)ライプツィッヒのフレーゲ博士(Dr. Frege)の家は音楽家のたまり場であり、メンデルスゾーンやシューマンもよく訪問していた。夫人のリビア(Livia)は歌手として知られていた。
6.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
ライプツィヒ、1877年1月23日
親愛なる友へ
まあ何ということでしょう!わたしたちもそうでしたけど、期待しすぎるときはいつもこういうものですね。「うますぎたのね。そうは問屋が卸さない(Es war zu schön gewesen, es hat nicht sollen sein.)。」____(1)もおそらく同じ事を考えているのでしょうか。ところで、この人は緊張のあまり、最終楽章が天国に昇り詰めるのか、地獄に落ちていくのか判断できなかったという噂です。
この話を聞いた後の二人だけの朝食は憂うつそのものでした。人生で真に良いことは、それを手にしているときには、当たり前のことに思われますが、失ってしまうと、むやみに悲しく感じられるものですね。しかしわたしたちはそれでも感謝しています。ええ、とっても感謝しています。あなたが当地にいらしたこと、あなたのここでの振る舞いやここで楽しそうにしていらしたことを大変嬉しく思います。それだけでわたしは色々慰められました。わたしはうまくいかなかったことばかり気にする性質です。時々気がとがめて、あなたをお呼びしてしまったのは、間違っていたのではと思うことがあります。あなたは、皆さんからもてはやされ、ウィーン風の作法を身につけておられ、ありとあらゆる洗練された贅沢で恰幅が良くなっておられます。信じられないことがいつも起こりましたけど、あなたはいつも、なんでもないという風にただ笑って、女主人であるわたしを不安から解放してくださいました。とくにそのことを、そしてその外もろもろのことを感謝します。あの日々がわたくしたちにとってどんなに素晴らしかったかをご自身に言い聞かせてください。振り返ってみられたとき、それだけがあなたに差し上げられた喜びでしょうし、ささやかな報酬になるものと信じます。
さて本論に入ります。フラウ・シューマンやお友だちが喜ばれると思いますけど、ベルリンを訪問する予定はありませんか。そのあとここにお立ち寄りくださいませんか(2)。あなたがウィーンにまっすぐに帰るなんて、わたしたちは考えたくもありません。なんとかしてもう一度お泊りになることを期待しております。ですから、あなたのお泊りになった部屋はそのままにしてありますし、ハインリッヒはわたしの部屋の立ち机で仕事をしています。ミンナもそのつもりです。でなければ彼女は今頃、全部を運び出しやら、掃除やらで、おおわらわのはずです。
ではさようなら。わたくしたちの事をいつまでも記憶にとどめてくださいね。どうか交響曲が早く印刷されますように。わたしたちはもう交響曲病です。あの大好きな、気を許すとするりと逃げだすメロディーを捕まえておくのにはほとほと疲れてしまいました。
わたしたちの養女(3)からよろしくとのことです。あなたの誠実なる友にいつまでもかわらぬ友情をお願いします。
忠実なる者より
注
(1)ゲバントハウスの理事の一人が流暢に交響曲の早々の再演に反対する弁を述べた。
(2) ブレスラウでの交響曲の演奏会の後。
(3)マティルデ・フォン・ハルテンタール(Mathilde von Hartenthal)、器用なアマチュア画家。
7.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
ライプツィヒ、1877年1月29日
親愛なるブラームスさまへ
ハインリッヒは今締め切りの来ている仕事に没頭しておりますし、あなたはお返事がほしいように言われますので、ハインリッヒに代わってペンをとる事にします。あなたの葉書の内容はある程度覚悟しておりました。あなたはこの郵便局の発明を神様に感謝すべきです。ここでまたお会いできるという希望も抱いていましたから、やはり失望しました。横のドアを少し開いたまま出てゆかれたような感じです。あなたは25日までは、そのドアから出たり入ったりしていらっしゃったのに、バタンと閉まってしまったのですね。お泊りになっていた青の部屋は嫌味なお針子が入っています。ハインリッヒは書斎に戻り、またいつもの単調な毎日が始まります。
わたしたちはゴルドマルク(1)の「田園の婚礼」にはなんの感動も覚えませんでしたが、一般大衆の受けは良かったようです。わたしは庭の場面で卒倒しかけ、トロンボーンの節が流れたときにはびっくり仰天しました。この場面はプログラムでは結婚式の合唱となっていたのですが、だれも気づきませんでした。事実、批評家もそのように受けとっていました。ゴルドマルクは演奏会の成功に満足していました。あの方は本当に愛すべき人ですね。
あなたはゴルドマルクのことだけを訊ねられたので、ここですぐにやめるのが作法というものですが、もう三件お話したいのです(ライプツィッヒに一週間滞在されたのですから、ローカル・ニュースに関心を持つ義務がおありでしょう)。あのウェーナー老人(2)は可哀想に軽い発作に見まわれ、片目を失明しました。ブラームス週間と飲みすぎが禍だったようです。彼は風邪を引き、消化不良、うっ血症になり、とうとう目に支障が生じました。厳しい消息でしょう。この哀れな老人はくる日もくる日も、二匹の灰色の雄猫だけを友だちとして暗い部屋にこもっています。猫たちは這い上がっては、彼の顔を引っ掻き、聖パウロ教会の陰が彼に忍び寄っています。彼の落ち度はともかく、悲劇的結末であることはお認めになるでしょう。第二の悪いニュースですが、ヘルテル老人(3)が気管支カタルになり、メントーネに送られることになりました。奥さんは彼につきそって明日たちますが、すっかり気が動転しています。第三のニュースはわたしには興味があっても、おそらくあなたにはあまりないでしょう。あなたが怒り狂って引き裂いてしまった、例のあなたの肖像スケッチ)ですが、うまく糊付けして修復しました。いっそう威厳があるようになりました。まるで、名誉の傷跡がいっぱいありますが、いまなお使用できる、古びた刀みたいです。じっさい、謎の失踪以来はじめて鑑賞できるようになって、以前よりもずっと好きになりました。マティルデは傷の手当てを手伝ってくれました。あなたは今日中にはアイロンがけされて安置されることになります(4)。
さようなら。お元気でね。わたくしたちのことをお忘れなく。またあなたの不幸なお友だちのことも皆さんによろしくお伝えください。ハインリッヒと養女、犬のパドックからもよろしくとのことです。
われわれにいつまでも変わらぬご友情をお願いします。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)カール・ゴルドマルク(Karl Goldmark,1830-)ウィーンの作曲家。彼の交響曲「田園の婚礼」は1877年1月25日にゲバントハウスで初演された。
(2)アルノルト・ウェーナー(Arnold Wehner)、ゲッチンゲン大学の元音楽監督でハノーファーのシュロッスキルヘの指揮者。ブラームスの沈黙せる敵の一人であった。彼はハノーファーでは最初非常に好意的であった(Max Kalbeck:Johannes Brahms i. 353)。
(3)レイムント・ヘルテル(Raimund Härtel)。
(4)マティルデ・フォン・ハルテンタールは鉛筆でブラームスのスケッチを描いた。
(5)飼い犬。
8.ブラームスからヘルツォーゲンベルク夫妻に
[ウィーン]、1877年1月
親愛なる友人たちへ
今たまたま手許に一枚の紙切れがあります。バラ色で天使のように愛想が良くないのが残念です。あいにく、いくら努力しても、便箋も私の顔もフラウ・エリーザベトのように優しくもなければ、美しくもありません。もしそうならば、私は今日書くべく努力したはずです。彼女ほどすてきなことを言うことに強い願望を持った人はいませんのでね。
あなたの家に泊めていただき、大変楽しい思いをしました。この記憶はまだ冷めてはおりませんので、これをいつまでもきちんと保存しておきたいと思います。
しかし、これを音楽で表現するのはずっと簡単ですから、この手紙は私の女主人にたいするたんなる儀礼で書かせていただきます。夕食に向かうときに彼女にお貸しする手のようなものあります。結局、この続編を書くのにもっとも美しく音と詩を選ぶことにしました。
ところで、私の行動と手紙の後でも、___はまだ愛想がいいでしようか?私はまったく行儀が悪いから。ためになる苦い経験を少しはよそでもするのが良いかもしれません。
ウェーナーとヘルテルは大変気の毒です。 …
最初のリハーサルを代わってもらうと助かることをブレスラウ(1)で悟りました。若くて達者なブトゥスがそこでは見事にやってくれました。彼がやってくれた後、そのまま引き継いで成功しました。最終楽章の導入部はライプツィッヒ公演と見違えるようで、私の好み通りでした。
ライネケに会われたら、ブトゥス(2)を推薦しておいてください。彼は卓越したピアニストであり、ニ短調の協奏曲を書きましたが、ゲバントハウスでも聴く価値はあります。
クレッチュマール博士から私の交響曲の感想を聞いて頂けませんか。彼の住所を知りませんし、彼はライプツィッヒからロストクには行きませんでした。たぶん評価する趣旨の手紙を彼からは頂けるものと思います。
それではお二人によろしくお伝えください。いつまでもお忘れなく。
J.ブラームスより
注
(1)ブラームスはベルンハルト・ショルツ(Bernhart Scholz)のブレスラウ・オーケストラ・コンサートで交響曲を指揮した。
(2)ユリウス・ブトゥス(Julius Buthus,1851-)後にデュッセルドルフの監督。病気のショルツに代わりリハーサルの指揮をした。
(3)カール・ライネッケ(Karl Reinecke,1824-)、ピアニストで作曲家、ゲバントハウスの監督。
(4)ヘルマン・クレッチュマール博士(Dr. Hermann Kretzschmar,1848-)、著述家で作曲家、後にベルリン大学の教授。ブラームスの音楽の最も早い時期からの最も雄弁な信奉者である。
9.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年2月15日
親愛なるブラームス様へ
私は、あなたが交響曲の到着が遅れていることで、いらだっておられないことを祈るものであります。あなたから見て犯罪行為であるとするならば、その曲を暗譜しようとして二、三日持っていた私が犯人であることを自白いたします。もちろん許可を得ておくべきでしたが、許可を頂く時間がありませんでした。妻はもう正確に弾き、あっという間に譜を読みこなす芸当をやってのけ、少なからず得意になっております。さて、この作曲家への大いなる崇拝と感謝の念をいかに表現したらよいのでしょうか。私の不器用なペンはまことに適切を欠くと感じておる次第です。私たちには、今回は、もっとも偉大なる曲のみがなしうる世界的規模の出来事であり、その不在は今や考えられず、私たちの存在を豊かに、高貴にしてくれるものであります。少なからぬ経験において、至る所で、衒いや軽佻浮薄に出会ってきた音楽家の一人として、私は(そしてすべての真理探究者たち)、私たちのことを考えたわけではないにせよ、あなたが、われわれの行路に建てられたこの柱に、深く感謝するものであります。左手に沼があり、右手に荒れ果てた砂地があるとしても構うことはありません。われわれがどの道に入り込もうとも、それはあなたの構うことではありません。あなたがリリパット国の小人たちの移動を観察(どうぞ顕微鏡をお使いになり)されたならば、すこしはほっとされるでしょう。小人たちは、倒れないようにと、あちこち泥の中に長靴をおいたまま、また衣装(色彩効果豊かな)からほこりを払いながら、ふたたび道に戻ろうとしてきました。誰もが強い意志をもって、正しい道から逸脱しないようにしてきました。
このことで、私は先週の土曜日に聞いたユリウス・レントゲン(1)の「セレナーデ」を思い出しました。これは彼の最良の作品です。あきらかに、昨今の作曲家たちとは異なり、彼はためらうことなく「旋律的」です。
それでは最後に、交響曲との別れの挨拶に代えて。
あなたが落ち着き耐えた期間に
私は大いに感謝いたします。
あなたがこれから旅するところでは
もっとうまく行くことを祈ります。(2)
Für die Zeit, wo Sie vorlieb nahmen,
Danke ich schön,
Und ich wünsch dass es Ihnen anderswo
Besser mag gehn.
たとえば、フラウ・ファーベルはパイで「夢」をこしらえました。私たちのことを親愛なるみなさんによろしくお伝えください。私たちは彼らの隣人になることつねに願っております。
私の妻と「娘」からのすてきな挨拶を伝える余白がなくなりました。彼女たちをいつまでもよろしく。
つねに誠実なヘルツォーゲンベルクより
注
(1)ユリウス・レントゲン(Julius Röntgen, 1855-)、ピアニストで作曲家1869年からゲバントハウス・オーケストラの主席であり、後にアムステルダムの音楽監督になった。
(2)ブラームスが編曲した有名な民謡「下のほうの谷の底から(Da unten im Tale)」をもじったもの。
あんたがわたしを愛してくれた期間に
わたしはとっても感謝します。
あんたがこれから旅するところでは
もっとうまく行くことを祈っているわ。
Für die Zeit, wo du g’liebt mi hast,
Dank i dir schön,
Und i wünsch’ dass dir’s anderswo
Besser mag geh’n.
10.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]、1877年4月23日
親愛なる友へ
今日の分厚い郵便物がいずれにお目に止まるものと存じます。すぐにご理解頂けると思いますが、私がいわんとするのはこの手紙ではなく、一、二時間後に到着するはずの郵便物です。私は普通の紙で分厚い郵便物を送ることはいたしません。私は伝言と挨拶を書き、折り返しのご返事を頂戴したいと思いました。
たぶん、私の「野菜」(1)について思われたこと、とくに、あいにく興味がなかったことを書いて頂ければと存じます。
甘いものはもう充分と感じられたら、「バッハ風」練習曲をご覧ください(2)。これはおもしろい練習曲のはずです。
私はこれらすべてをどこに送って頂くか、まもなくお知らせできるはずです。
いずれにせよ、私の手紙で多大のご迷惑をおかけするのをお詫びしなければなりません。
あなたにお時間があり、2通の手紙を書かねばという気持ちになり、お叱りをちょうだいできたら、ありがたいです。
あなたの「お嬢さん」はスケッチを、宛先を間違えて送られたのではないですか。スケッチはある理事の肖像画と間違えられたことをお話したいですね(3)。
今年は少し早い時期にウィーンにいらっしゃいませんか。私はどのくらいいるのか、どこへ出かけるのか決まっておりません。誠意のない話に聞こえるかもしれませんが、写譜の手間は省けます。写譜はおそろしく速くできます。
私は最初に書いたことが嘘になりませんように。三つ葉模様(Kleeblatt)のみなさんによろしく。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
注
(1)作品69から作品71の原稿。
(2)J.S.バッハのプレスト、バイオリン独奏のためのト短調ソナタより。ブラームスのピアノ練習曲として1879年にバルトルフ・ゼンフから二つの版が出版された。
(3)書簡7のマティルデ・フォン・ヘルテンタールのブラームスの肖像画。
11.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]、1877年4月23日
親愛なる友へ
これらの曲は楽しかったですか。あなたの奥方にも喜んで頂けましたか。どうかもう一度全部荷造りして一日も早くフラウ・シューマン、ベルリンN.W.のツェルテン11番 宛に送ってください。お願いします。再度ご迷惑をお掛けすることを恥じるものでありますが、結局ご迷惑をお掛けしてしました。
お許しください。了解のお手紙をお待ちします。では取り急ぎ失礼します。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
12.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年4月27日
親愛なる心優しき友人へ
なんという幸運でありましょう。私たちは、手紙を書く暇もなく、一日中コンサートの仕事で外出し、げっそり疲れて今し方帰ってきました。あなたのまことに自然な友愛のしるしには深く感謝するものであります。このおかげで久しぶりに幸せな気分になれました。まずは私たちのことを心にかけてくださったこと、つぎに私たちが喜ぶことを知っておられたこと(でなければ、小包は目的地に直接送られたでしょう)、最後に歌はどれもこれも美しかったからです。私たちはこの訪問の夢のようにはかない性質に不満を述べるつもりはありません。とにかく私たちのところに来たのですからそれで充分です。私たちの意識に消えることのない印象を残しましたので、もう一度見ることができなくても、目に見える形で回顧する事ができなくても、その印象は鮮やかに残っておりますし、昨日から数えて20曲分だけあなたが好きになりました。助けて、ザミエルかジムロック(1)。試験だけは勘弁してくださいよ。
私たちはユリウス・レントゲンを連れてきて、数時間ピアノに向かいました。最初は彼が、つぎに彼女が歌いました。それから彼女が、つぎに彼が演奏しました。一方私は、一枚の紙の上に私たちの印象を曲目と熱意を散文的にメモしました。こうすることで、小包を郵便局に持っていった後でも、適切な意見がいえるからです。発送作業は今朝自分ですませましたから、フラウ・シューマンは受け取られ、喜ばれることでしょう。
私たちが格別気に入ったのは、「お父さんが不機嫌でなかったら(Ei, schmallte mein Vater )」、「天の鳴き声(Ätherische fern Stimmen )」、「銀色の月(Silbermond )」、「おお、春の黄昏(O Frühlingsabenddämmering )」、「黒ツバメは帰ってくる(Es kehrt die dunkel Schwalbe )」と 「夏の蜘蛛の糸(Sommerfäden )」です(2)。
われわれはあらん限りの情熱で、何度も歌いましたが、あなたはまだご存じない指揮者の目がたまたまテンポ記号にふれました。われわれは黙り込み、気まずい視線を交わしました。私は今でも記憶しておりますが、テンポ記号についてあなたに話をしたとき、生意気にも、まっとうな音楽家が健全な作品のテンポで間違いをおかすはずがないと主張しましました。それにしても夢中になっていて、気づくのがなんと遅かったのでしょう。「きわめて活々とひそやかに(Sehr lebhaft und heimlich )」と書いてあります。私たちは左手の掛留で感情をむだにしてきたのです。右手の下に切分されたニ音のある二つの分散和音の上をさまよっていたのです。みんな間違いだったのです。私は遠くであなたの皮肉な笑いを聞いたような気がしました。あなたは正しいでしょう。もちろん正しいはずです。そしてわれわれは、まさに「楽しげに」かつ「ひそやかな」感謝の念でこれを歌うことになるでしょう。でもやはり、この発見で私たちは悩みました。われわれは、レーダー(3)の間違をあなたが校正のときに見落としたが、公刊のときには、ゆっくりとひそやかに(Langsam und heimlich )(4)となっているだろうという考えを抱いております。
「天の鳴き声」については何も言うことはありません。私はただ、右手が11度と13度に届かないのではないかと懸念します。
言葉は不充分なものですが、私の言葉は他の人の言葉よりも無益であるに違いありません。とりわけあなたには、私はぎごちなくて芳しからぬ手紙を書くはめになるように思われます。これまでの手紙の中で私の性格が表れているのに気づかれたなら、私はしくじってきたのです。
例のバッハの編曲は素晴らしいのですが、しょせんこの世の凡人には、デュエットで演奏するのが関の山ですが、それさえ簡単ではありません。これは印刷の予定でしょうか、それと、何部か注文しておきましようか。ああ、海賊行為は禁断の悦びの一つであります。一つの歌を急いで写譜して、傷ついた女心を癒す香しき薬にしたいのですが。その歌は遺憾ながら、宝の箱におさまり、入り口には見るも恐ろしいベルリンの竜が日向ぼっこをしています。
ウィーンでお会いできればよいのですが。でもウィーンにおられたとしても、面会はほとんど不可能です。ウィーンに行く予定はまったく立ちません。私たちは、ボヘミアの私の妹に五月をすべて振り向けるつもりです。彼女は主人を亡くしたばかりです。その後で、山で静かな時間を過ごしたいと思っています。九月の終わりまで、アルト・アウスゼーに滞在して仕事に励む予定です。あなたが、ほんのわずかの期間でもお立ち寄りくださればと考えたりしております。あなたとゴルドマルクが一緒に山登りをされるのを拝見したいものです。
ところでフラウ・シューマンは結局デュッセルドルフに行かれますが、あなたの代りに赴任されるのですか(5)。私は週間音楽新聞(Wochenblatt )ではありませんから、他言はいたしません。
もう一度、神の祝福があなたにありますように。
これは第一回目です。第二回目はすぐに、明日はかならず続きます。明日は妻には時間があります(6)。
もっとも誠実なるあなたのヘルツォーゲンベルクより
注
(1)二人ともブラームスの出版者。
(2)実際の題は:作品69、70、71,72 の 「恋人の誓い(Des Liebsten Schwu)」、 「ひばりの歌(Lerchengesang)」、「月に寄せて(An den Mond)」、「秘密(Geheimnis)」、「古き恋(Alte Liebe)」、「夏の蜘蛛の糸(Sommerfäden)」である。ヘルツォーゲンベルクは20の歌曲といっているが、ジムロックが1887年に出版した4部には23曲が含まれているので、ブラームスは3曲を追加したに違いない。彼は「古き恋」、「夏の蜘蛛の糸」、「セレナーデ(Serenade)」作品70、「克服できぬもの( Unüberwindlich )」作品71 にことのほか愛着があり、完成の月を注意深く記している。
(3)ライプツィッヒの楽譜銅版家。
(4)次の書簡を見よ。ブラームスはテンポ記号を Belebt und Heimlich に変えている。
(5)ブラームスはシューマンが占めていたデュッセルドルフの音楽監督のポストの申し出を受けたが、長い交渉は結局実らなかった。
(6)手紙は5月5日まで書かれなかった(書簡14)。
13.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]、1877年4月29日
親愛なる友へ
あなたのご親切なお手紙を頂戴しましたからには、すぐにお返事しなければいけません。活々とひそやかに(Belebt und Heimlich )は原稿の「春の黄昏」のテンポ記号ですが、この歌がつまらないと思い、なげやりに記号を振りました。しかしその後、ゆっくりと,アダージオ(Immer langsam, Adagio )になっており、最後の所では小節全体に延声記号がついております。
フラウ・シューマンは以前からデュッセルドルフに落ち着く考えを持ってみえました。私は、いろんな理由から、大変遺憾なことであり、そこに行く決意をなされたことを非常に気の毒に思います。
私の招へいとは関係ありません。この問題はついに(いましがた)決着しました。ひとつにはビッター会長(1)がベルリンに行くことになったことです。
私は気をつけてスズメバチの巣に近づかなくて良かったと思っています。
いつまでも記憶してくださいますよう。取り急ぎご返事まで。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
自筆原稿といえば、私は奥さんに借りが一つあることを忘れてはおりません。彼女を失望させはいたしません。それは私の発見できるもっとも優雅な曲のはずです。
注
(1)カール・ヘルマン・ビッター(Karl Hermann Bitter, 1813-1885)、1878年からプロシアの大蔵大臣。彼のJ.S.バッハと息子たちに関する著作で知られ、デュッセルドルフの行政長官であり、音楽協会の会長であった。この立場から、彼はブラームスと監督について書簡を交わしている。
14.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ベルリン、1877年5月5日
親愛なるブラームスへ
あなたの誕生日が明後日ですので、わたしたちはあなたの誕生日をフラウ・シューマンと一緒に彼女の家で祝うことにしました。あなたの健康を祝して乾杯するとき、あなたの耳は赤くほてることでしょう。この日はわたしたちにとって、あなたがこの地上に降り給うた、赤文字で記念すべき日なのです。
あなたの歌をここでまた聴くことができて幸せです。ライプツィッヒで聞くのは、楽しくはありましたが、大変でした。ライプツィッヒでは、じっくり知り合う暇もなく、ペットとして抱き上げることもできませんでした。この選択の作業にはじらされました。ここで多少ともその埋め合わせをしました。わたしの好きなものがあり、それらの歌は散歩のときも、どこででもわたしと一緒です。わたしがもっとも好きなのは、「天の鳴き声」、「夏の蜘蛛の糸」、それにト短調の付点八分音符が4度ある曲(レムケかしら、名前を覚えていません(1))、それに輝かしい「乙女の呪い(Mädchenfluch )」と「黒ツバメ」(ヘンシェル(2))です。
あなたは、わたしたちの嫌いな曲を聞かしてくれとおっしゃるし、わたしは真実を曲げたくない性質ですから、言わせていただきます。わたしは 「太鼓(Tambour )(3)」、「ここにはない(nicht ist da )」(第一曲だったと思いますが)とか、「出かけてもいい?(Willst du, dass ich geh )」は好きではありません。特にあとの曲には惹かれませんでした。歌詞だけで充分でした。この種の意見は民謡様式にのみいえるものです。シューマンの歌曲集にある「扉の前にいるのは誰(Wer steht vor meinem Kammertür )」とその前にある一曲(4)はまったく違います。あなたの二重唱(5)の「開けて、開けて(Tritt auf, tritt auf )」は少しも不快ではないのですが、この曲にはうるさい音があります。
でもこんな戯言を気になさらないでください。フラウ・シューマンは別の部屋で寝ていらっしゃいます。歌曲集は彼女のピアノの上にあります。でなければ、もう一、二枚書くことがありましたから、あなたは幸運でしたね。インキが滲んでしまってごめんなさい。ヨアヒムをレーヴェの夜(6)に行くための連れて来なくてはなりません。
さようなら。あなたが心優しく人生を送られ、いつまでも長寿を祝われるよう祈念いたします。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
連署 ハインリッヒ・ヘルツォーゲンベルク
フィリュ(7)
注
(1)海辺の庭にて(Im Garten am Seegestade)」作品70第1曲。
(2)ゲオルク・ヘンシェル(Georg Henschel, 1859-)、歌手。ブラームスは彼に Alte Liebe の自筆原稿を1876年リュウゲン島で献呈している。
(3)「小太鼓の歌(Tambourliedchen)」作品69の第5曲、「なげき(Klage)」作品69第1曲と作品71第4曲。
(4)シューマンの4つのデュエット作品34 Untern Fenster と Liebhabers Ständchen。
(5)ブラームスのアルトとバリトンのためのデュエット、作品28の第2曲
(6)おそらくレーベ(Löwe)のバラードの夕べであろう。
(7)マリー・フィリュンガー(Marie Fillunger)のあだ名、歌手、フラウ・シューマンの友人。
15.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年11月 23日]
親愛なる友人へ
私の手紙をご覧になられたら、あなたはきっと、私がハウフェかヘルテルのところか、ハウフェ・ホテルに行く途中であなたの所に立ち寄るものと考えるでしょう。でもそれは違います。私は一月の初めにライプツィッヒにまいります。私は幸運を信じていますし、危機の時には星(ベデッカーがライプツィヒの各所を飾り立てた)が私を導いてくれるでしょう。
私にはお願いしたいことがあり、しかも回答をいただきたいのです。ヘルテルがショパン全集(1)の編集を手伝えとうるさいのです。
あなたのご両親は彼の原稿を持っておられますか。あるいは彼の注記か修正の入った写本(2)でも結構です。
ウィーンでそれを見ることができますか。それともドレスデン(3)ですか、あるいはライプツィッヒですか。
私がしつけの良い人間なら、これから手紙が始まるでしょうし、ずぶとい人間なら悪ふざけの楽譜(4)でも封筒に入れるかもしれません。
しかし、私はどちらでもありません。あなたがたご三方に私の挨拶と私の新作の交響曲(5)の公演に親しくご臨席の栄を賜りたいと存ずるものであります。
J.ブラームスより
ウィーン、IV.カールスグラッセ、4.
注
(1)ブラームスはこの版の改定に手を貸した。
(2)彼女の父親はショパンの弟子であった。
(3)エリーザベトの兄エルンスト・フォン・シュトックハウゼン(Ernst von Stockhausen)はドレスデンに住んでいた。
(4) 実際には、フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクのために写譜した四声の「おお美しき夜」作品92の第1曲(1884年出版)に悪ふざけをしている。“ Der Knabe schleicht zu seiner Liebsten sacht— sacht— sacht“ でスペースを残し、楽譜に書き込んでいる。「お止しなさい。ヨハネス。これは何です。こんなのは民謡のときだけ許されます。また忘れたのね。出かけてもいいときくのはお百姓さんでしょう。お前さんはお百姓さんではないでしょうに。こんなのに怒ってはだめなのに、またやったのね。繰り返しなさい。」(ここで歌は続く)「おお美しき夜」。これで彼女の「出かけてもいい」に対する批判へのやんわりと抗議したのである。この四声の曲の自筆原稿は高名な外科医テオドール・ビルロート(Theodor Billroth)の所有であり、1878年1月29日の日付が入っている。しかしながら、この曲は1877年の夏に作曲されたのである。二つとも「ノットゥルノ(Notturno )」となっている。
(5)ニ長調作品73 。
16.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1877年11月15日
親愛なる友人へ
じつは、わたくしはあなたのお手紙を受け取りましたとき、何か変わったことが起きるものと思い、あなたがわたしたちに会いにみえるものと思って子供のように喜んでいました。ところが、読んでみたら、ヘルテル-ハウフェとベデッカーの星で始まり、そのあとはショパンでしょう。こう書き始められた方が率直というものではございません。
「私は一月一日にお宅を伺います。コーヒーは上物をお願いします。ようやく分かってくれたと思いますが、フレッシュ・クリームを沸かさないのが私の好みです。とにかく私にひもじい思いをさせないでください。(エンマ・エンゲルマン夫人(1)に要領をおしえてもらって)昼食は美味しいのをお願いしたいものです。これらの条件が満足されるならば、私は、シュトックハウゼン(2)がくる前に、あなたに聴いていただくために新作のシンフォニーをただちに演奏するでありましょう、等々。」
ええ、これこそ素直で感じのいい方のお手紙というものですわ。わたしはあなたの手紙を拝見して悲しくなりました。ご存知のように、わたしはずっと前から、新作の交響曲をカバンにいれて一月に当地を訪問されることを存じておりました。それにまあ、どうして’Symphonie’のような上品な言葉をSinfonie とf でつづられるのでしょうか。それでもわたしは謙譲であろうと、努力して自分を抑え、お手紙を差し上げませんでした。ヘル・ブラームスから、お好きな時に自分から泊めてくださいという手紙を頂けるものとばかり思っておりました。これがご褒美なのですか。ばかげた謙譲ですわね。
ショパンについてほとんど知っておりません。わたしの知る限り、父はショパンの自筆原稿の所有者でした。父はそれをわたしの兄に贈与しました。兄は父の所有していたショパンの全集も持っています。彼はあなたに最上の情報を提供できるはずです。ショパンが書き込みをしたのがあるはずです。それらはすべて確認できるはずです。このことを彼に郵便で知らせます。
今回あなたが完全に自由になりたくてハウフェ(新しい棟を増築し、ますます光り輝いております)に泊まりたいなら、もう少しほかの言い方があったはずです。そうすればわたしも少しは慰められたと思います。ヘルテル夫妻は今イタリアにいますので、あなたはそこには行けません。エンゲルマン家(3)もあなたをお迎えしたいでしょうが、家の解体工事があるのでだめです。エンゲルマン夫人はエンマと一緒に暮らしています。エンマはただ今妊娠中です。お幸せですこと。
というわけで、あなたがハウフェにお泊りになる計画をまだ立てておられないなら、あなたを敬愛するヘルツォーゲンベルク夫妻にお便りを下さい。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)エンマ・エンゲルマン旧姓ブランデス(Emma Engelmann geb. Brandes,1854-)ピアニスト、アロイス・シュミット(Aloys Schmitt)とゴルターマン(Goltermann)の弟子、この当時はユトレヒト大学の教授であったベルリンの生理学者テオドール・ウィルヘルム・エンゲルマンの妻。二人はブラームスの親友であった。変ロ調四重奏曲はエンゲルマンに献呈されている。
(2)ユリウス・シュトックハウゼン(Julius Stockhausen, 1826-1906)、有名な歌手、フランクフルト・アム・マインのマイスター称号を持つ。
(3)ウィルヘルム・エンゲルマン(Wilhelm Engelmann, 1808-1878)、ライプツィッヒの出版者で美術品収集家、エンゲルマン教授の父。
17.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年11月 23日]
親愛なる貴婦人へ
謙譲というものは 誰が着ても大変着心地の悪い衣装であります。あなたは私をからかっているのですか。それとも本当に私がご主人の顔を飾る美しいひげを引っ張って、婉曲にお願いしていたのが分からないのですか。あなたが改ざんした世界史を講義する必要はないでしょう。「良きコウノトリは12月にもどる。1月ではありません」(1)
新作の交響曲はたんなる Sinfonie です。私は前もってあなたのために弾くつもりはありません。あなたはピアノの前に座って、二つのペダルに可愛らしい足を乗せ、へ調の鍵を続けて叩けばよいのです。最初は高音域で、次に低音域で(ff と pp)。そのうち私の「最新作」(2)の生々しい印象が得られるでありましょう。
しかし私はあなたに反対してばかりで心底すまないと思っています。その埋め合わせになるニュースもあります。ゴルドマルクは昨日着きました。一月には彼のオペラ(3)をひっさげてライプツィッヒに行くことになるでしょう。このオペラのせいで、彼はグムンデンの仕事場のみならず、ここにも居着きません。私は彼をウィーンに引き留めておきたいものです。彼は愉快な人物ですが、ウィーンにはこの種の人物が少なすぎます。
でも今日はどれだけ手紙を書いたのでしょう。この辺で止めます。葉書ではなくて、便箋を封筒に入れるということは、あなたが私のこの前の手紙を誤解することをひたすら恐れるからであります。
あれは実際お願いの手紙でありました。ところで、エプシュタイン(4)に会って、私はさらにあなたのショパンの秘蔵品を期待することになりました。
今日の所は以上です。では失礼します。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
注
(1)「古き恋(Alte Liebe)、作品72の第1曲」の引用。ドイツの言伝えでは、コウノトリが赤ちゃんを連れてくる。
(2)交響曲の性格を誤解させようとしていっている。実際には陰鬱とは正反対の曲である。
(3)「シバの女王」はウィーンの初演の成功から各地で公演された。
(4)ユリウス・エプシュタイン(Julius Epstein, 1832-)、ウィーンのピアニストで教授であり、フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの先生であった。
18.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1877年12月3日
親愛なる友ブラームスへ
あなたの丁寧なお手紙にすぐにご返事しなかったことをおわびします。シュピッタス夫妻がわが家にお泊まりでしたし、なにかと忙しかったものですから。わが家に戻りたいというお気持ちには感謝いたします。ハウフェ・ホテルにお泊りになるとしたら、わたしは悲しいですわ。こんどの交響曲(1)を他の会社から出版したら、ジムロックが悲しむようなものでしょう。
もう少し明快に書いてくだされば、わたしは本当に感謝したのですが。あなたのシンフォニーは一月に演奏される予定ですが、第一回の演奏会ではないそうです。フラウ・シューマンは、はっきりと彼女の新年の演奏会を終えてから、ブラームスの交響曲を聞きにこちらにくる予定だとおっしゃっています。良きコウノトリ(あなた自身はそのおつもりでしょう)が12月に戻ってくる訳をぜひお聞かせください。12月には、私の小部屋はいっぱいで、実際に使える部屋はありません。ずいぶん昔からそうなっているので今すぐ配置を変えるわけにはいきません。ほかの日に変えるわけにはいけないのか是非お伺いしたいのです。でなければ、わが家には、着いてすぐには来て頂けません。のちほどフンボルト・シュトラーセに移動して頂くようにお願いすることにはなると思いますけど。あなたのお手紙はあいまいですが、ひょっとしてコウノトリのくだりはフラウ・エンゲルマンのことをいっておられるのではないかと、わたしは今思いつきました。そうであれば、あなたの訪問についてあれこれ考えてきたのは無駄だったことになります。そうであってほしいと思います。
このひらめきで目がくらむような気がしました。コウノトリは二重性格のスフィンクスのようにわたしの頭の上を飛んでおります。この急ぎの手紙を許していただき、この点を明確にして下るようお願いします。では失礼します。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
いつお待ちしたらいいのかお知らせください。お待ちいたしております。
追伸 あなたのお手紙を読み直してよく理解しました。わたしはコウノトリにくっついている間抜けのガチョウさんでした。わたしたちはあなたが一月にいらっしゃるのをお待ちします。早ければ早いほど結構です。二部屋とも二日から空いております。
同封
ショパンについては残念ながら、兄の話はわたしの心配していたことを裏付けるものでした。兄の手紙では、父のもっている版はあなたに役立ちそうもないということでした。そこにある注記は補足的なものではなく、明らかな誤植の修正にすぎず、音楽のわかる人ならだれにでもできる類のものです。指の使い方の指示が書き加えられていますが、アルカン(2)の書き込みの可能性もあります。父はアルカンにも教わっています。兄が持っている三つの手書き楽譜のうち、二つは書き写したものであり、真正のショパン自筆の楽譜はバルカロールで、母に捧げられたものです。兄には個人的にもらったト短調のバラードの写本と一緒にあなたに差し上げたい気持ちがありますが、まず父に伺いを立てなければいけません。父は厳格な条件の下で兄に手渡しているからです。それでもまだあなたが楽譜をみたいとおっしゃるなら、もちろんご自由にご覧になれると断言できます。
注
(1)書簡16と書簡18。
(2)シャルル・アンリ・モルハンジュ(Charles Henri Valentin Morhange, 1813-1888) 通称アルカン、フランスのピアニストで作曲家。
19.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年12月 12日]
親愛なる友人へ
あなたに書こうと思って便箋を用意したところへ、リンブルガー(1)から、わたしを一月一日にコンチェルトを演奏するよう招待の手紙が着きました。私はどうして良いか困り、慎重に考えていましたので、お手紙を差し上げられませんでした。
あなたの先の手紙が私に抱かせた尊敬の念を想像できるはずです。まさに洞察力の勝利です。まるで、ベートーベンの雑記帳の1ページです。あるアイデアが生まれて、発展し…あとはご自分でお埋めください。
しかし、あなたはこの事実上の悪ふざけに耐えられますか。私は、まだ手許に持っているピアノ・トリオの三番のアンダンテを同封して和解したいのです。あなたが気に入っておられたという記憶があるからです。私が取っておいた理由は、見栄なのか気兼ねなのか分かりません。訪問したとき持参いたします。
わたしが送ろうとしている悪ふざけ(2)に説明を加えるのは、あなたの知性を侮辱することになりますので、控えさせていただきます。わたしは送りますが、決して他人のモティーフを利用することを強く勧めているわけではありません…
しかし、今はリンブルガー(3)のことを考えています。30日にウィーンでへ短調(2)のコンサートに出席し、それからまたピアノ・コンチェルトを演奏するのか。
もっとも誠実なるあなたのJ.Br.より
注
(1)書簡15の「おお美しき夜」の自筆稿。ブラームスはふざけてヘルツォーゲンベルクのモティーフを使っている。
(2)ニ長調交響曲の誤った印象を維持しようとしている。
(3)リンブルガー博士(Dr. Limburger)、ライプツィッヒ領事、ゲバントハウス・コンサートの理事。
20.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年12月 13日]
善良なる友人へ
昨日申し上げるのを忘れましたが、私がライプツィッヒ(1)で演奏するとしたら、私はぜひ、一日か二日ホテルを確保したいと思います。友人の家でピアノの練習をするのは落ち着きません。でも私は練習をしなければいけません。私が愚かにも引き受けた場合には、ハウフェか、あるいはあなたが好きなところならどこでも構いませんが、一室予約して、ピアノ(アップライト)を入れておいてくださいませんか。
そうしておけば、あなたの部屋が空いているときには私も自由に出入りさせていただきます。市街からあなたの家まで凱旋行進ができます。
注記。私は30日(2)にこちらでコンサートがありますので、ぎりぎりに到着します。あなたはライネッケと演奏会用グランドピアノを頼める間柄ですか。私はまっすぐにリハーサルに向かいますので、最上のピアノがあればと思います。では取り急ぎ失礼します。
あなたのJ.Br.より
注
(1)彼はニ短調ピアノ協奏曲作品15を演奏することになっていた。
(2)ニ長調交響曲は1877年12月30日にウィーン・フィルハーモニックでリヒター博士の指揮で演奏された。
21.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年12月16日
親愛なる友へ
決定しましたからには、私はハウフェか「私の好きなところ」に一部屋予約しようと思います。私の好きなところはたまたまパルムバウムです。非常に見栄えがよく、清潔ですし、申し分なく優雅なホテルです。私たちの家から遠くありません。夜には辛い仕事、指の練習からの休息を取ることもできます。また、毎晩ではありませんが、ときどき晩餐にご招待し、強制的あるいは自発的亡命生活をできる限り楽しいものにしたいと考えております。あなたがフンボルト・シュトラーセにきれいさっぱり移動されるときが来れば、事はまことに簡単になります。ですから、あなたからのお手紙がないときには、パルムバウムに予約してあるものと思って手はずを整えてください。到着の日時を早くにお知らせくださることを希望します。私はライネッケを通して格別格調高いピアノを手配します。フルサイズのブリュトナー(アリクォット)を手配できますし、もしお好みならば、ベックシュタイン(あなたの友人ロベルト・ザイツから、彼の場合、見返りは交響曲の原稿でいいとか!) も可能です。それともグロトリアン、ヘルフフェルヒ、シュルツがお好みでしたら、いずれか当たってみます。ブリュトナーは確実です。
ところで、私の卵をカッコーの巣(1)に入れていただいたことに大変感謝します。われわれの場合には、後世の歴史は師匠から弟子が盗んだとは記さないでしょう。こんなことがまた続くと、エミル・ナウマン(2)たちは仰天して、ブラームスをもっとも忠実な弟子の亜流に分類してしまうかもしれません。そうなればいい気味なのですが。
でもなぜあなたは、われわれの内輪もめの原因となっているパートを隠したのですか。
多少のやり取りに記憶力を発揮するより、この裂け目(3)をなにか適当な当たり障りないもので埋め合わせてはどうでしょうか。
私はこの妙なる歌を写譜してしまうつもりですし、ここで歌われることを望んでいます。ですから欠如した部分を送ってください。
若者はいつもの道を通って恋人のところに盗み足で行く(4)。でもこれをメロディーの上でやってなぜいけないのでしょう。
今日はバッハ・コンサートがあります。数えてみて何回目でしょうか。誰も当てられないはずです。
わたくしたちからの丁重なる挨拶を。ホテルとピアノと到着日時に関して早速お返事をいただきたいと思います。
誠実なるあなたのヘルツォーゲンベルクより
(エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからの追伸)
女の優柔不断にたいする辛辣な味さえなければもっと良かったのですが、自筆原稿には感謝いたします。わたしを淑やかだと思っておられますが、これほど見当違いな判断もありません。でも、いくら弁明してもむだでしょう。あなたが、わたしがダウメルの歌や悪評高い「生ぬるい風(Unbewegte laue Luft)」(5) のためにどれだけ論争したかご存じないからです。
でも恩は忘れられるものです。彼が泊まっていいかどうか聞いている(6)ときの音色が重要なのです。わたしの意見ではレムケ(7)はそうではありません。さてこのホ長調の作品がこの問題について討論することになるでしょう。この曲は非常に美しいですから、どんなことにも我慢すべきでしょう。それにしても何とまあ記憶力の良い方でしょう。どうぞその記憶力を発揮して、約束したハ短調の自筆原稿を忘れずにお願いします。誤審を受けた者に出し惜しみしてはいけません。
上記の妻より
注
(1) 書簡15と書簡19の注参照。
(2) エミル・ナウマン(Emil Naumann,1827-1888) ドレスデンの作曲家で音楽の著述家、「挿絵入り音楽史」の著者。
(3)書簡15の注記。
(4)「おお美しき夜」。
(5)作品57の第8曲。ゲオルク・フリードリッヒ・ダウメル(Georg Friedrich Daumer,1800-1875)ハフィズ(Hafiz)の美妙なドイツ語版の著者。「ポリドーラ(Polydora)」集はその詩の肉感性のゆえに不当に非難された。特に彼のFrauenbilder と Huldigungen は激しく攻撃された。ブラームスはダウメルの詩に付曲しているが、問題の歌曲はこの詩集からとられている。
(7)カール・レムケ(Karl Lemke, 1831-)詩人、美学と文学に著書がある。ヘイデルベルク、ミュンヘン、アムステルダム、シュツットガルトの各大学のポストを占めた。
22.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]1877年12月26日
親愛なる友ブラームスへ
お部屋の準備は31日にはできています。どの時間でも、まずはわが家にお出かけくださり、最初にホテルには行かないでください。どんな良いことがあるのでしょう。どのみち(1)ピアノの練習にはわずかの時間しか割けませんし、その時間ですら、あなたはだれかのお世話にならなければ利用できません。この家でしたら、わたしがそのだれかさんになり、あなたをピアノの前に座らせ、気詰まりにならないように出ていきます。ああ、31日にいらっしゃるということを前もって知っていましたらねえ。お手紙は結構です。わたしをもう怖がっていらっしゃらなければ、ご来訪を心からお待ちします。わたしに下さるというアダージオを忘れないで。あなたがわたしに下さるのは真に適切であると信じます。わたしはその曲が、それは、それは大好きなのですから。それではお元気で、わが家にお出でください。
あなたを敬愛するヘルツォーゲンベルク夫妻より
注
(1)ブラームスはゲバントハウスの1月1日にニ短調協奏曲を演奏する予定であった。1859年1月27日の場合には非常に不評(Kalbeck: Johannes Brahms i. 352)であった。彼は1月10日のコンサートで第二交響曲を指揮した。
23.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年12月 29日]
こんなに離れたところから、ホテルやらプディングやらピアノについて議論することはできません。しかしながら、私はあなたが料理を焦がして大騒ぎされないことを希望いたします。
私は月曜日の12時45分に到着し、リハーサルに直行します。ご主人はその間に気分転換にお風呂でもいかがですか、といわれるかもしれませんが、それは結構です。
いつまでもお風呂に入らないあなたのJ.Br.より
オーケストラは今回の交響曲を演奏するとき葬送的効果を出すために喪章を付けていました。黒枠付の楽譜(1)で出版されることでしょう。
注
(1)「ヘ短調」交響曲(書簡17)の冗談に合わせるためである。実際にはウィーンでは好評であり、一部は熱狂的に受け入れられた。
ライプツィヒ、1877年1月3日
親愛なるヘル・ブラームスへ
私たちはあなたのお手紙から、わが家にお泊りになるおつもりと推察します。私たちにとって大変な朗報です。フンボルト・シュトラーセ24の2階にあるわが家は、こもるには都合がよく、見本市の客であふれるホテルよりは、静かにくつろいでいただけます。お泊まりいただく部屋は、ちょうどいい場所にあって、ご都合の悪いときには、初対面の人はもちろんのこと、私たちにも顔を会わせずにすみます。もっとも私たち夫婦にはこの特権をあまり行使されないようお願いします。あなたの到着の日時と経由地はドレスデンかエゲールか、葉書でお知らせください。ジムロックはあなたの交響曲をいつ出版する予定ですか(1)。演奏会の前であることを希望しますが。
できる限り早く(もし可能ならば今すぐにも)から、できる限り長期間お泊まりください。
フラウ・シューマンがお友だちのフラウ・レポックかフラウ・ライモンド・ヘルテル(2)の家に泊まられるとしたら、あなたはフラウ・シューマンの近くに泊まれることになります。フレーゲ夫妻は今回彼女をお泊めできません。わかっている事は以上です。
乱筆と薄い便箋をお詫びします。取り急ぎお知らせします。
あなたの誠実なる友人ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)交響曲第一番ハ短調 作品68は1877年にジムロックが出版している。ブラームスは1月18日のゲバントハウスで指揮する交響曲の最終リハーサルのために1月14日に到着している。交響曲は非常に好評であった。同時に、彼はオーケストラによる「ハイドンの主題による変奏曲」を指揮し、ゲオルク・ヘンシェルによる彼の歌曲の独唱の伴奏をした。2日後には、ゲバントハウス室内楽演奏会で、ハ短調四重奏曲作品60のピアノ部を演奏した。
(2)ブライトコプフ&ヘルテル(Breitkopf und Härtel)社の社長夫人。
(3)ライプツィッヒのフレーゲ博士(Dr. Frege)の家は音楽家のたまり場であり、メンデルスゾーンやシューマンもよく訪問していた。夫人のリビア(Livia)は歌手として知られていた。
6.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
ライプツィヒ、1877年1月23日
親愛なる友へ
まあ何ということでしょう!わたしたちもそうでしたけど、期待しすぎるときはいつもこういうものですね。「うますぎたのね。そうは問屋が卸さない(Es war zu schön gewesen, es hat nicht sollen sein.)。」____(1)もおそらく同じ事を考えているのでしょうか。ところで、この人は緊張のあまり、最終楽章が天国に昇り詰めるのか、地獄に落ちていくのか判断できなかったという噂です。
この話を聞いた後の二人だけの朝食は憂うつそのものでした。人生で真に良いことは、それを手にしているときには、当たり前のことに思われますが、失ってしまうと、むやみに悲しく感じられるものですね。しかしわたしたちはそれでも感謝しています。ええ、とっても感謝しています。あなたが当地にいらしたこと、あなたのここでの振る舞いやここで楽しそうにしていらしたことを大変嬉しく思います。それだけでわたしは色々慰められました。わたしはうまくいかなかったことばかり気にする性質です。時々気がとがめて、あなたをお呼びしてしまったのは、間違っていたのではと思うことがあります。あなたは、皆さんからもてはやされ、ウィーン風の作法を身につけておられ、ありとあらゆる洗練された贅沢で恰幅が良くなっておられます。信じられないことがいつも起こりましたけど、あなたはいつも、なんでもないという風にただ笑って、女主人であるわたしを不安から解放してくださいました。とくにそのことを、そしてその外もろもろのことを感謝します。あの日々がわたくしたちにとってどんなに素晴らしかったかをご自身に言い聞かせてください。振り返ってみられたとき、それだけがあなたに差し上げられた喜びでしょうし、ささやかな報酬になるものと信じます。
さて本論に入ります。フラウ・シューマンやお友だちが喜ばれると思いますけど、ベルリンを訪問する予定はありませんか。そのあとここにお立ち寄りくださいませんか(2)。あなたがウィーンにまっすぐに帰るなんて、わたしたちは考えたくもありません。なんとかしてもう一度お泊りになることを期待しております。ですから、あなたのお泊りになった部屋はそのままにしてありますし、ハインリッヒはわたしの部屋の立ち机で仕事をしています。ミンナもそのつもりです。でなければ彼女は今頃、全部を運び出しやら、掃除やらで、おおわらわのはずです。
ではさようなら。わたくしたちの事をいつまでも記憶にとどめてくださいね。どうか交響曲が早く印刷されますように。わたしたちはもう交響曲病です。あの大好きな、気を許すとするりと逃げだすメロディーを捕まえておくのにはほとほと疲れてしまいました。
わたしたちの養女(3)からよろしくとのことです。あなたの誠実なる友にいつまでもかわらぬ友情をお願いします。
忠実なる者より
注
(1)ゲバントハウスの理事の一人が流暢に交響曲の早々の再演に反対する弁を述べた。
(2) ブレスラウでの交響曲の演奏会の後。
(3)マティルデ・フォン・ハルテンタール(Mathilde von Hartenthal)、器用なアマチュア画家。
7.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからヨハネス・ブラームスへ
ライプツィヒ、1877年1月29日
親愛なるブラームスさまへ
ハインリッヒは今締め切りの来ている仕事に没頭しておりますし、あなたはお返事がほしいように言われますので、ハインリッヒに代わってペンをとる事にします。あなたの葉書の内容はある程度覚悟しておりました。あなたはこの郵便局の発明を神様に感謝すべきです。ここでまたお会いできるという希望も抱いていましたから、やはり失望しました。横のドアを少し開いたまま出てゆかれたような感じです。あなたは25日までは、そのドアから出たり入ったりしていらっしゃったのに、バタンと閉まってしまったのですね。お泊りになっていた青の部屋は嫌味なお針子が入っています。ハインリッヒは書斎に戻り、またいつもの単調な毎日が始まります。
わたしたちはゴルドマルク(1)の「田園の婚礼」にはなんの感動も覚えませんでしたが、一般大衆の受けは良かったようです。わたしは庭の場面で卒倒しかけ、トロンボーンの節が流れたときにはびっくり仰天しました。この場面はプログラムでは結婚式の合唱となっていたのですが、だれも気づきませんでした。事実、批評家もそのように受けとっていました。ゴルドマルクは演奏会の成功に満足していました。あの方は本当に愛すべき人ですね。
あなたはゴルドマルクのことだけを訊ねられたので、ここですぐにやめるのが作法というものですが、もう三件お話したいのです(ライプツィッヒに一週間滞在されたのですから、ローカル・ニュースに関心を持つ義務がおありでしょう)。あのウェーナー老人(2)は可哀想に軽い発作に見まわれ、片目を失明しました。ブラームス週間と飲みすぎが禍だったようです。彼は風邪を引き、消化不良、うっ血症になり、とうとう目に支障が生じました。厳しい消息でしょう。この哀れな老人はくる日もくる日も、二匹の灰色の雄猫だけを友だちとして暗い部屋にこもっています。猫たちは這い上がっては、彼の顔を引っ掻き、聖パウロ教会の陰が彼に忍び寄っています。彼の落ち度はともかく、悲劇的結末であることはお認めになるでしょう。第二の悪いニュースですが、ヘルテル老人(3)が気管支カタルになり、メントーネに送られることになりました。奥さんは彼につきそって明日たちますが、すっかり気が動転しています。第三のニュースはわたしには興味があっても、おそらくあなたにはあまりないでしょう。あなたが怒り狂って引き裂いてしまった、例のあなたの肖像スケッチ)ですが、うまく糊付けして修復しました。いっそう威厳があるようになりました。まるで、名誉の傷跡がいっぱいありますが、いまなお使用できる、古びた刀みたいです。じっさい、謎の失踪以来はじめて鑑賞できるようになって、以前よりもずっと好きになりました。マティルデは傷の手当てを手伝ってくれました。あなたは今日中にはアイロンがけされて安置されることになります(4)。
さようなら。お元気でね。わたくしたちのことをお忘れなく。またあなたの不幸なお友だちのことも皆さんによろしくお伝えください。ハインリッヒと養女、犬のパドックからもよろしくとのことです。
われわれにいつまでも変わらぬご友情をお願いします。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)カール・ゴルドマルク(Karl Goldmark,1830-)ウィーンの作曲家。彼の交響曲「田園の婚礼」は1877年1月25日にゲバントハウスで初演された。
(2)アルノルト・ウェーナー(Arnold Wehner)、ゲッチンゲン大学の元音楽監督でハノーファーのシュロッスキルヘの指揮者。ブラームスの沈黙せる敵の一人であった。彼はハノーファーでは最初非常に好意的であった(Max Kalbeck:Johannes Brahms i. 353)。
(3)レイムント・ヘルテル(Raimund Härtel)。
(4)マティルデ・フォン・ハルテンタールは鉛筆でブラームスのスケッチを描いた。
(5)飼い犬。
8.ブラームスからヘルツォーゲンベルク夫妻に
[ウィーン]、1877年1月
親愛なる友人たちへ
今たまたま手許に一枚の紙切れがあります。バラ色で天使のように愛想が良くないのが残念です。あいにく、いくら努力しても、便箋も私の顔もフラウ・エリーザベトのように優しくもなければ、美しくもありません。もしそうならば、私は今日書くべく努力したはずです。彼女ほどすてきなことを言うことに強い願望を持った人はいませんのでね。
あなたの家に泊めていただき、大変楽しい思いをしました。この記憶はまだ冷めてはおりませんので、これをいつまでもきちんと保存しておきたいと思います。
しかし、これを音楽で表現するのはずっと簡単ですから、この手紙は私の女主人にたいするたんなる儀礼で書かせていただきます。夕食に向かうときに彼女にお貸しする手のようなものあります。結局、この続編を書くのにもっとも美しく音と詩を選ぶことにしました。
ところで、私の行動と手紙の後でも、___はまだ愛想がいいでしようか?私はまったく行儀が悪いから。ためになる苦い経験を少しはよそでもするのが良いかもしれません。
ウェーナーとヘルテルは大変気の毒です。 …
最初のリハーサルを代わってもらうと助かることをブレスラウ(1)で悟りました。若くて達者なブトゥスがそこでは見事にやってくれました。彼がやってくれた後、そのまま引き継いで成功しました。最終楽章の導入部はライプツィッヒ公演と見違えるようで、私の好み通りでした。
ライネケに会われたら、ブトゥス(2)を推薦しておいてください。彼は卓越したピアニストであり、ニ短調の協奏曲を書きましたが、ゲバントハウスでも聴く価値はあります。
クレッチュマール博士から私の交響曲の感想を聞いて頂けませんか。彼の住所を知りませんし、彼はライプツィッヒからロストクには行きませんでした。たぶん評価する趣旨の手紙を彼からは頂けるものと思います。
それではお二人によろしくお伝えください。いつまでもお忘れなく。
J.ブラームスより
注
(1)ブラームスはベルンハルト・ショルツ(Bernhart Scholz)のブレスラウ・オーケストラ・コンサートで交響曲を指揮した。
(2)ユリウス・ブトゥス(Julius Buthus,1851-)後にデュッセルドルフの監督。病気のショルツに代わりリハーサルの指揮をした。
(3)カール・ライネッケ(Karl Reinecke,1824-)、ピアニストで作曲家、ゲバントハウスの監督。
(4)ヘルマン・クレッチュマール博士(Dr. Hermann Kretzschmar,1848-)、著述家で作曲家、後にベルリン大学の教授。ブラームスの音楽の最も早い時期からの最も雄弁な信奉者である。
9.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年2月15日
親愛なるブラームス様へ
私は、あなたが交響曲の到着が遅れていることで、いらだっておられないことを祈るものであります。あなたから見て犯罪行為であるとするならば、その曲を暗譜しようとして二、三日持っていた私が犯人であることを自白いたします。もちろん許可を得ておくべきでしたが、許可を頂く時間がありませんでした。妻はもう正確に弾き、あっという間に譜を読みこなす芸当をやってのけ、少なからず得意になっております。さて、この作曲家への大いなる崇拝と感謝の念をいかに表現したらよいのでしょうか。私の不器用なペンはまことに適切を欠くと感じておる次第です。私たちには、今回は、もっとも偉大なる曲のみがなしうる世界的規模の出来事であり、その不在は今や考えられず、私たちの存在を豊かに、高貴にしてくれるものであります。少なからぬ経験において、至る所で、衒いや軽佻浮薄に出会ってきた音楽家の一人として、私は(そしてすべての真理探究者たち)、私たちのことを考えたわけではないにせよ、あなたが、われわれの行路に建てられたこの柱に、深く感謝するものであります。左手に沼があり、右手に荒れ果てた砂地があるとしても構うことはありません。われわれがどの道に入り込もうとも、それはあなたの構うことではありません。あなたがリリパット国の小人たちの移動を観察(どうぞ顕微鏡をお使いになり)されたならば、すこしはほっとされるでしょう。小人たちは、倒れないようにと、あちこち泥の中に長靴をおいたまま、また衣装(色彩効果豊かな)からほこりを払いながら、ふたたび道に戻ろうとしてきました。誰もが強い意志をもって、正しい道から逸脱しないようにしてきました。
このことで、私は先週の土曜日に聞いたユリウス・レントゲン(1)の「セレナーデ」を思い出しました。これは彼の最良の作品です。あきらかに、昨今の作曲家たちとは異なり、彼はためらうことなく「旋律的」です。
それでは最後に、交響曲との別れの挨拶に代えて。
あなたが落ち着き耐えた期間に
私は大いに感謝いたします。
あなたがこれから旅するところでは
もっとうまく行くことを祈ります。(2)
Für die Zeit, wo Sie vorlieb nahmen,
Danke ich schön,
Und ich wünsch dass es Ihnen anderswo
Besser mag gehn.
たとえば、フラウ・ファーベルはパイで「夢」をこしらえました。私たちのことを親愛なるみなさんによろしくお伝えください。私たちは彼らの隣人になることつねに願っております。
私の妻と「娘」からのすてきな挨拶を伝える余白がなくなりました。彼女たちをいつまでもよろしく。
つねに誠実なヘルツォーゲンベルクより
注
(1)ユリウス・レントゲン(Julius Röntgen, 1855-)、ピアニストで作曲家1869年からゲバントハウス・オーケストラの主席であり、後にアムステルダムの音楽監督になった。
(2)ブラームスが編曲した有名な民謡「下のほうの谷の底から(Da unten im Tale)」をもじったもの。
あんたがわたしを愛してくれた期間に
わたしはとっても感謝します。
あんたがこれから旅するところでは
もっとうまく行くことを祈っているわ。
Für die Zeit, wo du g’liebt mi hast,
Dank i dir schön,
Und i wünsch’ dass dir’s anderswo
Besser mag geh’n.
10.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]、1877年4月23日
親愛なる友へ
今日の分厚い郵便物がいずれにお目に止まるものと存じます。すぐにご理解頂けると思いますが、私がいわんとするのはこの手紙ではなく、一、二時間後に到着するはずの郵便物です。私は普通の紙で分厚い郵便物を送ることはいたしません。私は伝言と挨拶を書き、折り返しのご返事を頂戴したいと思いました。
たぶん、私の「野菜」(1)について思われたこと、とくに、あいにく興味がなかったことを書いて頂ければと存じます。
甘いものはもう充分と感じられたら、「バッハ風」練習曲をご覧ください(2)。これはおもしろい練習曲のはずです。
私はこれらすべてをどこに送って頂くか、まもなくお知らせできるはずです。
いずれにせよ、私の手紙で多大のご迷惑をおかけするのをお詫びしなければなりません。
あなたにお時間があり、2通の手紙を書かねばという気持ちになり、お叱りをちょうだいできたら、ありがたいです。
あなたの「お嬢さん」はスケッチを、宛先を間違えて送られたのではないですか。スケッチはある理事の肖像画と間違えられたことをお話したいですね(3)。
今年は少し早い時期にウィーンにいらっしゃいませんか。私はどのくらいいるのか、どこへ出かけるのか決まっておりません。誠意のない話に聞こえるかもしれませんが、写譜の手間は省けます。写譜はおそろしく速くできます。
私は最初に書いたことが嘘になりませんように。三つ葉模様(Kleeblatt)のみなさんによろしく。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
注
(1)作品69から作品71の原稿。
(2)J.S.バッハのプレスト、バイオリン独奏のためのト短調ソナタより。ブラームスのピアノ練習曲として1879年にバルトルフ・ゼンフから二つの版が出版された。
(3)書簡7のマティルデ・フォン・ヘルテンタールのブラームスの肖像画。
11.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]、1877年4月23日
親愛なる友へ
これらの曲は楽しかったですか。あなたの奥方にも喜んで頂けましたか。どうかもう一度全部荷造りして一日も早くフラウ・シューマン、ベルリンN.W.のツェルテン11番 宛に送ってください。お願いします。再度ご迷惑をお掛けすることを恥じるものでありますが、結局ご迷惑をお掛けしてしました。
お許しください。了解のお手紙をお待ちします。では取り急ぎ失礼します。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
12.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年4月27日
親愛なる心優しき友人へ
なんという幸運でありましょう。私たちは、手紙を書く暇もなく、一日中コンサートの仕事で外出し、げっそり疲れて今し方帰ってきました。あなたのまことに自然な友愛のしるしには深く感謝するものであります。このおかげで久しぶりに幸せな気分になれました。まずは私たちのことを心にかけてくださったこと、つぎに私たちが喜ぶことを知っておられたこと(でなければ、小包は目的地に直接送られたでしょう)、最後に歌はどれもこれも美しかったからです。私たちはこの訪問の夢のようにはかない性質に不満を述べるつもりはありません。とにかく私たちのところに来たのですからそれで充分です。私たちの意識に消えることのない印象を残しましたので、もう一度見ることができなくても、目に見える形で回顧する事ができなくても、その印象は鮮やかに残っておりますし、昨日から数えて20曲分だけあなたが好きになりました。助けて、ザミエルかジムロック(1)。試験だけは勘弁してくださいよ。
私たちはユリウス・レントゲンを連れてきて、数時間ピアノに向かいました。最初は彼が、つぎに彼女が歌いました。それから彼女が、つぎに彼が演奏しました。一方私は、一枚の紙の上に私たちの印象を曲目と熱意を散文的にメモしました。こうすることで、小包を郵便局に持っていった後でも、適切な意見がいえるからです。発送作業は今朝自分ですませましたから、フラウ・シューマンは受け取られ、喜ばれることでしょう。
私たちが格別気に入ったのは、「お父さんが不機嫌でなかったら(Ei, schmallte mein Vater )」、「天の鳴き声(Ätherische fern Stimmen )」、「銀色の月(Silbermond )」、「おお、春の黄昏(O Frühlingsabenddämmering )」、「黒ツバメは帰ってくる(Es kehrt die dunkel Schwalbe )」と 「夏の蜘蛛の糸(Sommerfäden )」です(2)。
われわれはあらん限りの情熱で、何度も歌いましたが、あなたはまだご存じない指揮者の目がたまたまテンポ記号にふれました。われわれは黙り込み、気まずい視線を交わしました。私は今でも記憶しておりますが、テンポ記号についてあなたに話をしたとき、生意気にも、まっとうな音楽家が健全な作品のテンポで間違いをおかすはずがないと主張しましました。それにしても夢中になっていて、気づくのがなんと遅かったのでしょう。「きわめて活々とひそやかに(Sehr lebhaft und heimlich )」と書いてあります。私たちは左手の掛留で感情をむだにしてきたのです。右手の下に切分されたニ音のある二つの分散和音の上をさまよっていたのです。みんな間違いだったのです。私は遠くであなたの皮肉な笑いを聞いたような気がしました。あなたは正しいでしょう。もちろん正しいはずです。そしてわれわれは、まさに「楽しげに」かつ「ひそやかな」感謝の念でこれを歌うことになるでしょう。でもやはり、この発見で私たちは悩みました。われわれは、レーダー(3)の間違をあなたが校正のときに見落としたが、公刊のときには、ゆっくりとひそやかに(Langsam und heimlich )(4)となっているだろうという考えを抱いております。
「天の鳴き声」については何も言うことはありません。私はただ、右手が11度と13度に届かないのではないかと懸念します。
言葉は不充分なものですが、私の言葉は他の人の言葉よりも無益であるに違いありません。とりわけあなたには、私はぎごちなくて芳しからぬ手紙を書くはめになるように思われます。これまでの手紙の中で私の性格が表れているのに気づかれたなら、私はしくじってきたのです。
例のバッハの編曲は素晴らしいのですが、しょせんこの世の凡人には、デュエットで演奏するのが関の山ですが、それさえ簡単ではありません。これは印刷の予定でしょうか、それと、何部か注文しておきましようか。ああ、海賊行為は禁断の悦びの一つであります。一つの歌を急いで写譜して、傷ついた女心を癒す香しき薬にしたいのですが。その歌は遺憾ながら、宝の箱におさまり、入り口には見るも恐ろしいベルリンの竜が日向ぼっこをしています。
ウィーンでお会いできればよいのですが。でもウィーンにおられたとしても、面会はほとんど不可能です。ウィーンに行く予定はまったく立ちません。私たちは、ボヘミアの私の妹に五月をすべて振り向けるつもりです。彼女は主人を亡くしたばかりです。その後で、山で静かな時間を過ごしたいと思っています。九月の終わりまで、アルト・アウスゼーに滞在して仕事に励む予定です。あなたが、ほんのわずかの期間でもお立ち寄りくださればと考えたりしております。あなたとゴルドマルクが一緒に山登りをされるのを拝見したいものです。
ところでフラウ・シューマンは結局デュッセルドルフに行かれますが、あなたの代りに赴任されるのですか(5)。私は週間音楽新聞(Wochenblatt )ではありませんから、他言はいたしません。
もう一度、神の祝福があなたにありますように。
これは第一回目です。第二回目はすぐに、明日はかならず続きます。明日は妻には時間があります(6)。
もっとも誠実なるあなたのヘルツォーゲンベルクより
注
(1)二人ともブラームスの出版者。
(2)実際の題は:作品69、70、71,72 の 「恋人の誓い(Des Liebsten Schwu)」、 「ひばりの歌(Lerchengesang)」、「月に寄せて(An den Mond)」、「秘密(Geheimnis)」、「古き恋(Alte Liebe)」、「夏の蜘蛛の糸(Sommerfäden)」である。ヘルツォーゲンベルクは20の歌曲といっているが、ジムロックが1887年に出版した4部には23曲が含まれているので、ブラームスは3曲を追加したに違いない。彼は「古き恋」、「夏の蜘蛛の糸」、「セレナーデ(Serenade)」作品70、「克服できぬもの( Unüberwindlich )」作品71 にことのほか愛着があり、完成の月を注意深く記している。
(3)ライプツィッヒの楽譜銅版家。
(4)次の書簡を見よ。ブラームスはテンポ記号を Belebt und Heimlich に変えている。
(5)ブラームスはシューマンが占めていたデュッセルドルフの音楽監督のポストの申し出を受けたが、長い交渉は結局実らなかった。
(6)手紙は5月5日まで書かれなかった(書簡14)。
13.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]、1877年4月29日
親愛なる友へ
あなたのご親切なお手紙を頂戴しましたからには、すぐにお返事しなければいけません。活々とひそやかに(Belebt und Heimlich )は原稿の「春の黄昏」のテンポ記号ですが、この歌がつまらないと思い、なげやりに記号を振りました。しかしその後、ゆっくりと,アダージオ(Immer langsam, Adagio )になっており、最後の所では小節全体に延声記号がついております。
フラウ・シューマンは以前からデュッセルドルフに落ち着く考えを持ってみえました。私は、いろんな理由から、大変遺憾なことであり、そこに行く決意をなされたことを非常に気の毒に思います。
私の招へいとは関係ありません。この問題はついに(いましがた)決着しました。ひとつにはビッター会長(1)がベルリンに行くことになったことです。
私は気をつけてスズメバチの巣に近づかなくて良かったと思っています。
いつまでも記憶してくださいますよう。取り急ぎご返事まで。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
自筆原稿といえば、私は奥さんに借りが一つあることを忘れてはおりません。彼女を失望させはいたしません。それは私の発見できるもっとも優雅な曲のはずです。
注
(1)カール・ヘルマン・ビッター(Karl Hermann Bitter, 1813-1885)、1878年からプロシアの大蔵大臣。彼のJ.S.バッハと息子たちに関する著作で知られ、デュッセルドルフの行政長官であり、音楽協会の会長であった。この立場から、彼はブラームスと監督について書簡を交わしている。
14.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ベルリン、1877年5月5日
親愛なるブラームスへ
あなたの誕生日が明後日ですので、わたしたちはあなたの誕生日をフラウ・シューマンと一緒に彼女の家で祝うことにしました。あなたの健康を祝して乾杯するとき、あなたの耳は赤くほてることでしょう。この日はわたしたちにとって、あなたがこの地上に降り給うた、赤文字で記念すべき日なのです。
あなたの歌をここでまた聴くことができて幸せです。ライプツィッヒで聞くのは、楽しくはありましたが、大変でした。ライプツィッヒでは、じっくり知り合う暇もなく、ペットとして抱き上げることもできませんでした。この選択の作業にはじらされました。ここで多少ともその埋め合わせをしました。わたしの好きなものがあり、それらの歌は散歩のときも、どこででもわたしと一緒です。わたしがもっとも好きなのは、「天の鳴き声」、「夏の蜘蛛の糸」、それにト短調の付点八分音符が4度ある曲(レムケかしら、名前を覚えていません(1))、それに輝かしい「乙女の呪い(Mädchenfluch )」と「黒ツバメ」(ヘンシェル(2))です。
あなたは、わたしたちの嫌いな曲を聞かしてくれとおっしゃるし、わたしは真実を曲げたくない性質ですから、言わせていただきます。わたしは 「太鼓(Tambour )(3)」、「ここにはない(nicht ist da )」(第一曲だったと思いますが)とか、「出かけてもいい?(Willst du, dass ich geh )」は好きではありません。特にあとの曲には惹かれませんでした。歌詞だけで充分でした。この種の意見は民謡様式にのみいえるものです。シューマンの歌曲集にある「扉の前にいるのは誰(Wer steht vor meinem Kammertür )」とその前にある一曲(4)はまったく違います。あなたの二重唱(5)の「開けて、開けて(Tritt auf, tritt auf )」は少しも不快ではないのですが、この曲にはうるさい音があります。
でもこんな戯言を気になさらないでください。フラウ・シューマンは別の部屋で寝ていらっしゃいます。歌曲集は彼女のピアノの上にあります。でなければ、もう一、二枚書くことがありましたから、あなたは幸運でしたね。インキが滲んでしまってごめんなさい。ヨアヒムをレーヴェの夜(6)に行くための連れて来なくてはなりません。
さようなら。あなたが心優しく人生を送られ、いつまでも長寿を祝われるよう祈念いたします。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
連署 ハインリッヒ・ヘルツォーゲンベルク
フィリュ(7)
注
(1)海辺の庭にて(Im Garten am Seegestade)」作品70第1曲。
(2)ゲオルク・ヘンシェル(Georg Henschel, 1859-)、歌手。ブラームスは彼に Alte Liebe の自筆原稿を1876年リュウゲン島で献呈している。
(3)「小太鼓の歌(Tambourliedchen)」作品69の第5曲、「なげき(Klage)」作品69第1曲と作品71第4曲。
(4)シューマンの4つのデュエット作品34 Untern Fenster と Liebhabers Ständchen。
(5)ブラームスのアルトとバリトンのためのデュエット、作品28の第2曲
(6)おそらくレーベ(Löwe)のバラードの夕べであろう。
(7)マリー・フィリュンガー(Marie Fillunger)のあだ名、歌手、フラウ・シューマンの友人。
15.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年11月 23日]
親愛なる友人へ
私の手紙をご覧になられたら、あなたはきっと、私がハウフェかヘルテルのところか、ハウフェ・ホテルに行く途中であなたの所に立ち寄るものと考えるでしょう。でもそれは違います。私は一月の初めにライプツィッヒにまいります。私は幸運を信じていますし、危機の時には星(ベデッカーがライプツィヒの各所を飾り立てた)が私を導いてくれるでしょう。
私にはお願いしたいことがあり、しかも回答をいただきたいのです。ヘルテルがショパン全集(1)の編集を手伝えとうるさいのです。
あなたのご両親は彼の原稿を持っておられますか。あるいは彼の注記か修正の入った写本(2)でも結構です。
ウィーンでそれを見ることができますか。それともドレスデン(3)ですか、あるいはライプツィッヒですか。
私がしつけの良い人間なら、これから手紙が始まるでしょうし、ずぶとい人間なら悪ふざけの楽譜(4)でも封筒に入れるかもしれません。
しかし、私はどちらでもありません。あなたがたご三方に私の挨拶と私の新作の交響曲(5)の公演に親しくご臨席の栄を賜りたいと存ずるものであります。
J.ブラームスより
ウィーン、IV.カールスグラッセ、4.
注
(1)ブラームスはこの版の改定に手を貸した。
(2)彼女の父親はショパンの弟子であった。
(3)エリーザベトの兄エルンスト・フォン・シュトックハウゼン(Ernst von Stockhausen)はドレスデンに住んでいた。
(4) 実際には、フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクのために写譜した四声の「おお美しき夜」作品92の第1曲(1884年出版)に悪ふざけをしている。“ Der Knabe schleicht zu seiner Liebsten sacht— sacht— sacht“ でスペースを残し、楽譜に書き込んでいる。「お止しなさい。ヨハネス。これは何です。こんなのは民謡のときだけ許されます。また忘れたのね。出かけてもいいときくのはお百姓さんでしょう。お前さんはお百姓さんではないでしょうに。こんなのに怒ってはだめなのに、またやったのね。繰り返しなさい。」(ここで歌は続く)「おお美しき夜」。これで彼女の「出かけてもいい」に対する批判へのやんわりと抗議したのである。この四声の曲の自筆原稿は高名な外科医テオドール・ビルロート(Theodor Billroth)の所有であり、1878年1月29日の日付が入っている。しかしながら、この曲は1877年の夏に作曲されたのである。二つとも「ノットゥルノ(Notturno )」となっている。
(5)ニ長調作品73 。
16.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1877年11月15日
親愛なる友人へ
じつは、わたくしはあなたのお手紙を受け取りましたとき、何か変わったことが起きるものと思い、あなたがわたしたちに会いにみえるものと思って子供のように喜んでいました。ところが、読んでみたら、ヘルテル-ハウフェとベデッカーの星で始まり、そのあとはショパンでしょう。こう書き始められた方が率直というものではございません。
「私は一月一日にお宅を伺います。コーヒーは上物をお願いします。ようやく分かってくれたと思いますが、フレッシュ・クリームを沸かさないのが私の好みです。とにかく私にひもじい思いをさせないでください。(エンマ・エンゲルマン夫人(1)に要領をおしえてもらって)昼食は美味しいのをお願いしたいものです。これらの条件が満足されるならば、私は、シュトックハウゼン(2)がくる前に、あなたに聴いていただくために新作のシンフォニーをただちに演奏するでありましょう、等々。」
ええ、これこそ素直で感じのいい方のお手紙というものですわ。わたしはあなたの手紙を拝見して悲しくなりました。ご存知のように、わたしはずっと前から、新作の交響曲をカバンにいれて一月に当地を訪問されることを存じておりました。それにまあ、どうして’Symphonie’のような上品な言葉をSinfonie とf でつづられるのでしょうか。それでもわたしは謙譲であろうと、努力して自分を抑え、お手紙を差し上げませんでした。ヘル・ブラームスから、お好きな時に自分から泊めてくださいという手紙を頂けるものとばかり思っておりました。これがご褒美なのですか。ばかげた謙譲ですわね。
ショパンについてほとんど知っておりません。わたしの知る限り、父はショパンの自筆原稿の所有者でした。父はそれをわたしの兄に贈与しました。兄は父の所有していたショパンの全集も持っています。彼はあなたに最上の情報を提供できるはずです。ショパンが書き込みをしたのがあるはずです。それらはすべて確認できるはずです。このことを彼に郵便で知らせます。
今回あなたが完全に自由になりたくてハウフェ(新しい棟を増築し、ますます光り輝いております)に泊まりたいなら、もう少しほかの言い方があったはずです。そうすればわたしも少しは慰められたと思います。ヘルテル夫妻は今イタリアにいますので、あなたはそこには行けません。エンゲルマン家(3)もあなたをお迎えしたいでしょうが、家の解体工事があるのでだめです。エンゲルマン夫人はエンマと一緒に暮らしています。エンマはただ今妊娠中です。お幸せですこと。
というわけで、あなたがハウフェにお泊りになる計画をまだ立てておられないなら、あなたを敬愛するヘルツォーゲンベルク夫妻にお便りを下さい。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)エンマ・エンゲルマン旧姓ブランデス(Emma Engelmann geb. Brandes,1854-)ピアニスト、アロイス・シュミット(Aloys Schmitt)とゴルターマン(Goltermann)の弟子、この当時はユトレヒト大学の教授であったベルリンの生理学者テオドール・ウィルヘルム・エンゲルマンの妻。二人はブラームスの親友であった。変ロ調四重奏曲はエンゲルマンに献呈されている。
(2)ユリウス・シュトックハウゼン(Julius Stockhausen, 1826-1906)、有名な歌手、フランクフルト・アム・マインのマイスター称号を持つ。
(3)ウィルヘルム・エンゲルマン(Wilhelm Engelmann, 1808-1878)、ライプツィッヒの出版者で美術品収集家、エンゲルマン教授の父。
17.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年11月 23日]
親愛なる貴婦人へ
謙譲というものは 誰が着ても大変着心地の悪い衣装であります。あなたは私をからかっているのですか。それとも本当に私がご主人の顔を飾る美しいひげを引っ張って、婉曲にお願いしていたのが分からないのですか。あなたが改ざんした世界史を講義する必要はないでしょう。「良きコウノトリは12月にもどる。1月ではありません」(1)
新作の交響曲はたんなる Sinfonie です。私は前もってあなたのために弾くつもりはありません。あなたはピアノの前に座って、二つのペダルに可愛らしい足を乗せ、へ調の鍵を続けて叩けばよいのです。最初は高音域で、次に低音域で(ff と pp)。そのうち私の「最新作」(2)の生々しい印象が得られるでありましょう。
しかし私はあなたに反対してばかりで心底すまないと思っています。その埋め合わせになるニュースもあります。ゴルドマルクは昨日着きました。一月には彼のオペラ(3)をひっさげてライプツィッヒに行くことになるでしょう。このオペラのせいで、彼はグムンデンの仕事場のみならず、ここにも居着きません。私は彼をウィーンに引き留めておきたいものです。彼は愉快な人物ですが、ウィーンにはこの種の人物が少なすぎます。
でも今日はどれだけ手紙を書いたのでしょう。この辺で止めます。葉書ではなくて、便箋を封筒に入れるということは、あなたが私のこの前の手紙を誤解することをひたすら恐れるからであります。
あれは実際お願いの手紙でありました。ところで、エプシュタイン(4)に会って、私はさらにあなたのショパンの秘蔵品を期待することになりました。
今日の所は以上です。では失礼します。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
注
(1)「古き恋(Alte Liebe)、作品72の第1曲」の引用。ドイツの言伝えでは、コウノトリが赤ちゃんを連れてくる。
(2)交響曲の性格を誤解させようとしていっている。実際には陰鬱とは正反対の曲である。
(3)「シバの女王」はウィーンの初演の成功から各地で公演された。
(4)ユリウス・エプシュタイン(Julius Epstein, 1832-)、ウィーンのピアニストで教授であり、フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの先生であった。
18.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1877年12月3日
親愛なる友ブラームスへ
あなたの丁寧なお手紙にすぐにご返事しなかったことをおわびします。シュピッタス夫妻がわが家にお泊まりでしたし、なにかと忙しかったものですから。わが家に戻りたいというお気持ちには感謝いたします。ハウフェ・ホテルにお泊りになるとしたら、わたしは悲しいですわ。こんどの交響曲(1)を他の会社から出版したら、ジムロックが悲しむようなものでしょう。
もう少し明快に書いてくだされば、わたしは本当に感謝したのですが。あなたのシンフォニーは一月に演奏される予定ですが、第一回の演奏会ではないそうです。フラウ・シューマンは、はっきりと彼女の新年の演奏会を終えてから、ブラームスの交響曲を聞きにこちらにくる予定だとおっしゃっています。良きコウノトリ(あなた自身はそのおつもりでしょう)が12月に戻ってくる訳をぜひお聞かせください。12月には、私の小部屋はいっぱいで、実際に使える部屋はありません。ずいぶん昔からそうなっているので今すぐ配置を変えるわけにはいきません。ほかの日に変えるわけにはいけないのか是非お伺いしたいのです。でなければ、わが家には、着いてすぐには来て頂けません。のちほどフンボルト・シュトラーセに移動して頂くようにお願いすることにはなると思いますけど。あなたのお手紙はあいまいですが、ひょっとしてコウノトリのくだりはフラウ・エンゲルマンのことをいっておられるのではないかと、わたしは今思いつきました。そうであれば、あなたの訪問についてあれこれ考えてきたのは無駄だったことになります。そうであってほしいと思います。
このひらめきで目がくらむような気がしました。コウノトリは二重性格のスフィンクスのようにわたしの頭の上を飛んでおります。この急ぎの手紙を許していただき、この点を明確にして下るようお願いします。では失礼します。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
いつお待ちしたらいいのかお知らせください。お待ちいたしております。
追伸 あなたのお手紙を読み直してよく理解しました。わたしはコウノトリにくっついている間抜けのガチョウさんでした。わたしたちはあなたが一月にいらっしゃるのをお待ちします。早ければ早いほど結構です。二部屋とも二日から空いております。
同封
ショパンについては残念ながら、兄の話はわたしの心配していたことを裏付けるものでした。兄の手紙では、父のもっている版はあなたに役立ちそうもないということでした。そこにある注記は補足的なものではなく、明らかな誤植の修正にすぎず、音楽のわかる人ならだれにでもできる類のものです。指の使い方の指示が書き加えられていますが、アルカン(2)の書き込みの可能性もあります。父はアルカンにも教わっています。兄が持っている三つの手書き楽譜のうち、二つは書き写したものであり、真正のショパン自筆の楽譜はバルカロールで、母に捧げられたものです。兄には個人的にもらったト短調のバラードの写本と一緒にあなたに差し上げたい気持ちがありますが、まず父に伺いを立てなければいけません。父は厳格な条件の下で兄に手渡しているからです。それでもまだあなたが楽譜をみたいとおっしゃるなら、もちろんご自由にご覧になれると断言できます。
注
(1)書簡16と書簡18。
(2)シャルル・アンリ・モルハンジュ(Charles Henri Valentin Morhange, 1813-1888) 通称アルカン、フランスのピアニストで作曲家。
19.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年12月 12日]
親愛なる友人へ
あなたに書こうと思って便箋を用意したところへ、リンブルガー(1)から、わたしを一月一日にコンチェルトを演奏するよう招待の手紙が着きました。私はどうして良いか困り、慎重に考えていましたので、お手紙を差し上げられませんでした。
あなたの先の手紙が私に抱かせた尊敬の念を想像できるはずです。まさに洞察力の勝利です。まるで、ベートーベンの雑記帳の1ページです。あるアイデアが生まれて、発展し…あとはご自分でお埋めください。
しかし、あなたはこの事実上の悪ふざけに耐えられますか。私は、まだ手許に持っているピアノ・トリオの三番のアンダンテを同封して和解したいのです。あなたが気に入っておられたという記憶があるからです。私が取っておいた理由は、見栄なのか気兼ねなのか分かりません。訪問したとき持参いたします。
わたしが送ろうとしている悪ふざけ(2)に説明を加えるのは、あなたの知性を侮辱することになりますので、控えさせていただきます。わたしは送りますが、決して他人のモティーフを利用することを強く勧めているわけではありません…
しかし、今はリンブルガー(3)のことを考えています。30日にウィーンでへ短調(2)のコンサートに出席し、それからまたピアノ・コンチェルトを演奏するのか。
もっとも誠実なるあなたのJ.Br.より
注
(1)書簡15の「おお美しき夜」の自筆稿。ブラームスはふざけてヘルツォーゲンベルクのモティーフを使っている。
(2)ニ長調交響曲の誤った印象を維持しようとしている。
(3)リンブルガー博士(Dr. Limburger)、ライプツィッヒ領事、ゲバントハウス・コンサートの理事。
20.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年12月 13日]
善良なる友人へ
昨日申し上げるのを忘れましたが、私がライプツィッヒ(1)で演奏するとしたら、私はぜひ、一日か二日ホテルを確保したいと思います。友人の家でピアノの練習をするのは落ち着きません。でも私は練習をしなければいけません。私が愚かにも引き受けた場合には、ハウフェか、あるいはあなたが好きなところならどこでも構いませんが、一室予約して、ピアノ(アップライト)を入れておいてくださいませんか。
そうしておけば、あなたの部屋が空いているときには私も自由に出入りさせていただきます。市街からあなたの家まで凱旋行進ができます。
注記。私は30日(2)にこちらでコンサートがありますので、ぎりぎりに到着します。あなたはライネッケと演奏会用グランドピアノを頼める間柄ですか。私はまっすぐにリハーサルに向かいますので、最上のピアノがあればと思います。では取り急ぎ失礼します。
あなたのJ.Br.より
注
(1)彼はニ短調ピアノ協奏曲作品15を演奏することになっていた。
(2)ニ長調交響曲は1877年12月30日にウィーン・フィルハーモニックでリヒター博士の指揮で演奏された。
21.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィヒ、1877年12月16日
親愛なる友へ
決定しましたからには、私はハウフェか「私の好きなところ」に一部屋予約しようと思います。私の好きなところはたまたまパルムバウムです。非常に見栄えがよく、清潔ですし、申し分なく優雅なホテルです。私たちの家から遠くありません。夜には辛い仕事、指の練習からの休息を取ることもできます。また、毎晩ではありませんが、ときどき晩餐にご招待し、強制的あるいは自発的亡命生活をできる限り楽しいものにしたいと考えております。あなたがフンボルト・シュトラーセにきれいさっぱり移動されるときが来れば、事はまことに簡単になります。ですから、あなたからのお手紙がないときには、パルムバウムに予約してあるものと思って手はずを整えてください。到着の日時を早くにお知らせくださることを希望します。私はライネッケを通して格別格調高いピアノを手配します。フルサイズのブリュトナー(アリクォット)を手配できますし、もしお好みならば、ベックシュタイン(あなたの友人ロベルト・ザイツから、彼の場合、見返りは交響曲の原稿でいいとか!) も可能です。それともグロトリアン、ヘルフフェルヒ、シュルツがお好みでしたら、いずれか当たってみます。ブリュトナーは確実です。
ところで、私の卵をカッコーの巣(1)に入れていただいたことに大変感謝します。われわれの場合には、後世の歴史は師匠から弟子が盗んだとは記さないでしょう。こんなことがまた続くと、エミル・ナウマン(2)たちは仰天して、ブラームスをもっとも忠実な弟子の亜流に分類してしまうかもしれません。そうなればいい気味なのですが。
でもなぜあなたは、われわれの内輪もめの原因となっているパートを隠したのですか。
多少のやり取りに記憶力を発揮するより、この裂け目(3)をなにか適当な当たり障りないもので埋め合わせてはどうでしょうか。
私はこの妙なる歌を写譜してしまうつもりですし、ここで歌われることを望んでいます。ですから欠如した部分を送ってください。
若者はいつもの道を通って恋人のところに盗み足で行く(4)。でもこれをメロディーの上でやってなぜいけないのでしょう。
今日はバッハ・コンサートがあります。数えてみて何回目でしょうか。誰も当てられないはずです。
わたくしたちからの丁重なる挨拶を。ホテルとピアノと到着日時に関して早速お返事をいただきたいと思います。
誠実なるあなたのヘルツォーゲンベルクより
(エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからの追伸)
女の優柔不断にたいする辛辣な味さえなければもっと良かったのですが、自筆原稿には感謝いたします。わたしを淑やかだと思っておられますが、これほど見当違いな判断もありません。でも、いくら弁明してもむだでしょう。あなたが、わたしがダウメルの歌や悪評高い「生ぬるい風(Unbewegte laue Luft)」(5) のためにどれだけ論争したかご存じないからです。
でも恩は忘れられるものです。彼が泊まっていいかどうか聞いている(6)ときの音色が重要なのです。わたしの意見ではレムケ(7)はそうではありません。さてこのホ長調の作品がこの問題について討論することになるでしょう。この曲は非常に美しいですから、どんなことにも我慢すべきでしょう。それにしても何とまあ記憶力の良い方でしょう。どうぞその記憶力を発揮して、約束したハ短調の自筆原稿を忘れずにお願いします。誤審を受けた者に出し惜しみしてはいけません。
上記の妻より
注
(1) 書簡15と書簡19の注参照。
(2) エミル・ナウマン(Emil Naumann,1827-1888) ドレスデンの作曲家で音楽の著述家、「挿絵入り音楽史」の著者。
(3)書簡15の注記。
(4)「おお美しき夜」。
(5)作品57の第8曲。ゲオルク・フリードリッヒ・ダウメル(Georg Friedrich Daumer,1800-1875)ハフィズ(Hafiz)の美妙なドイツ語版の著者。「ポリドーラ(Polydora)」集はその詩の肉感性のゆえに不当に非難された。特に彼のFrauenbilder と Huldigungen は激しく攻撃された。ブラームスはダウメルの詩に付曲しているが、問題の歌曲はこの詩集からとられている。
(7)カール・レムケ(Karl Lemke, 1831-)詩人、美学と文学に著書がある。ヘイデルベルク、ミュンヘン、アムステルダム、シュツットガルトの各大学のポストを占めた。
22.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]1877年12月26日
親愛なる友ブラームスへ
お部屋の準備は31日にはできています。どの時間でも、まずはわが家にお出かけくださり、最初にホテルには行かないでください。どんな良いことがあるのでしょう。どのみち(1)ピアノの練習にはわずかの時間しか割けませんし、その時間ですら、あなたはだれかのお世話にならなければ利用できません。この家でしたら、わたしがそのだれかさんになり、あなたをピアノの前に座らせ、気詰まりにならないように出ていきます。ああ、31日にいらっしゃるということを前もって知っていましたらねえ。お手紙は結構です。わたしをもう怖がっていらっしゃらなければ、ご来訪を心からお待ちします。わたしに下さるというアダージオを忘れないで。あなたがわたしに下さるのは真に適切であると信じます。わたしはその曲が、それは、それは大好きなのですから。それではお元気で、わが家にお出でください。
あなたを敬愛するヘルツォーゲンベルク夫妻より
注
(1)ブラームスはゲバントハウスの1月1日にニ短調協奏曲を演奏する予定であった。1859年1月27日の場合には非常に不評(Kalbeck: Johannes Brahms i. 352)であった。彼は1月10日のコンサートで第二交響曲を指揮した。
23.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1877年12月 29日]
こんなに離れたところから、ホテルやらプディングやらピアノについて議論することはできません。しかしながら、私はあなたが料理を焦がして大騒ぎされないことを希望いたします。
私は月曜日の12時45分に到着し、リハーサルに直行します。ご主人はその間に気分転換にお風呂でもいかがですか、といわれるかもしれませんが、それは結構です。
いつまでもお風呂に入らないあなたのJ.Br.より
オーケストラは今回の交響曲を演奏するとき葬送的効果を出すために喪章を付けていました。黒枠付の楽譜(1)で出版されることでしょう。
注
(1)「ヘ短調」交響曲(書簡17)の冗談に合わせるためである。実際にはウィーンでは好評であり、一部は熱狂的に受け入れられた。
1878年
24.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年1月16日
親愛なる友ブラームスへ
ごぶさたしております。ここにわたしが手に入れた新聞批評があります。でもあなたはそんなのを気にはされないでしょう。まず――の記事ですけど、あなたの最近の作品にはインスピレーションに欠けると断言しています。これらのことにはすべて慣れて、フラウ・パスターが言われるところの「動じない態度」を身につけておられるにちがいありません。今度お手紙を頂けるときには(ウィーンにお帰りなってから(1)と思っています)、「あなたが批判に超然としておられる理由とその程度」をお聞かせください。この記事が広く配布されているので気になります。わたしは飽きることなく、あなたの良い評判を支持し続けています。いつもあなたが世界中で一番礼儀をわきまえており、社交的で洗練された人物であり、あなたがウィーンのフラッパルト(2)から立ち居振る舞いのレッスンを受けておられることも皆さんに言ってきました。あなたの優雅なお辞儀の仕方が分からないのはよっぽど無知な人です。
今日はなにも考えられません。ただ哀れな二人のヘルツォーゲンベルクをのこして、われらの巨匠にしてわれらの子(notre maitre, notre enfant)が11日に発たれたことを除いては何事も起きていません。楽しい訪問者にはこわいぐらい簡単に慣れてしまうのですね。わたくしたちにあなたが下さった11日間の美しき日々を感謝します。ご親切にもあなたはお時間をわたしたちに与えてくださいました。ベートーベン・テーブル(3)で夜のひとときを割いてくださるたびに、本当に感銘を受けました。
あなたはとうとうお酒のビンを忘れて行かれました。それを見つけたときのわたしの気持ちは、幼い甥の気持ちと同じでした。何年か前、マチルデ・ハルテンタールは甥が彼女にあげたクルミ割りを持たずに行ってしまいました。「可哀想!あの人どうするのだろうね」としみじみと言っていました。
あなたがナイトガウンを忘れて行かれたのはもっと重大です。洗濯に出して、雪のように白くしてユトレヒトに送ります。ここライプツィッヒではまったく同じ毎日です。ニ長調のデュエット(4)をテノールのW――と練習していますが、うまくやるのは大変苦痛です。W――は最後の B♭-E-A-D がうまく歌えなくて二重唱が困難です。
では、さようなら、さようなら。「饒舌なるもの、汝の名は女なり!」などとは言わないでください。
わたしはあなたがハ短調(5)をたっぷり堪能されることを期待いたします。もっともわたしたちの半分も楽しんでおられるのか、疑問ではありますけど。そちらに行かれないわたくしたちには同情してくださいね。おりにふれ、わたしたちのことを想い出してください。
あなたのもっとも信頼できる崇拝者リーズルとハインリッヒ H.より
注
(1)ブラームスはライプツィッヒから1月22日にはブレーメン、2月4日にはアムステルダム、2月6日にはハーグで新作の交響曲を指揮した。
(2)ルイ・フラッパール(Louis Frappart)、ウィーン・オペラ劇場の主席ダンサー。
(3)あるレストランの席。
(4)作品75の第3曲
(5)ハンブルクとユトレヒトのハ短調交響曲
25.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ハンブルク、1878年1月 18日]
親愛なる友へ
この手紙は意図と目的において、外形はともかく葉書にすぎません。短い急ぎの走り書きであり、お宅で過ごした楽しい日々をいささかもほのめかすものではありません。
さて、毎日思うことですが、ここであなた方をお迎えする予定がないのはまことに結構なことです。ハンブルクだけですが、年間360日じつにいやな天気(残りの5日に当たるのは困難の極み)です。外に出ようとか窓から外を眺めたいという気持ちになるのは一日のうち一時間とありません。
でもハ短調の指揮は楽しいとおもわれます。オーケストラは非常に熱心で今晩を楽しみにしています。明日はブレーメン(カール・ラインターレル(1))に、水曜日にはユトレヒト(T.W.エンゲルマン)に行きます。2月4日にはアムステルダムでニ長調を指揮する約束をしました。ユトレヒトの宛先で手紙も届きます。
手紙の意図がばれましたね。例の交響曲のパーツをアムステルダムの宛先は、J.A.ジレム、ヘーレングラハト、478です。
ジムロックの代理業者をご存じだと思いますが、例の荷物を彼に渡してさえいただければ結構です。もう一つの荷物はまじめな話、デュエットと呼んで頂いて結構ですが、ユトレヒトに送るために彼に手渡してください。
到着した最初の日にビュルナー(2)に手紙を書きましたが、プログラムには、ニ長調交響曲、ベートーベンの合唱付き幻想曲、そして「魔の炎」(3)が入っていると知ったときの可哀想なわれらの友人の拷問の苦痛(4)を想像してみてください。私はもちろん手紙を出して彼女に来るように説得しますが、すべてが滑稽で、真剣に考える気もしません。彼女が引き受ける気になるとは考えられません。
安心してお休みください。あなた方がどれだけお手紙を下さろうとも、どれほど親切であろうとも、私は借金とみなし、利子をつけてお返しします。あなたの兄弟姉妹の皆様に、それからベルンシュトルフ(5)にもよろしくお伝えください。
いつまでもあなたのJ.Br.より
注
(1)カール・ラインターレル(Karl Reinthaler, 1822-1896)、ブレーメンの作曲家で指揮者。ブラームスの熱狂的崇拝者。
(2)フランツ・ビュルナー(Franz Wüllner, 1832-1902)ミュンヘンとドレスデンの指揮者。
(3)フラウ・シューマンのワーグナーに対する反感は非常に強く、ブラームスは「魔の炎」と同じプログラムでは演奏しないのではないかと心配した。
(4)フラウ・シューマンはドレスデンのブラームスの交響曲と同じコンサートでベートーベンの「合唱幻想曲」を演奏することになっていた。
(5)エードアルト・ベルンシュトルフ(Eduard Bernstorff, 1825-1901)、音楽紙 Die Signale für musikalische Welt の反ブラームス派の評論家。
26.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年1月19日
待望のお手紙ただいま受け取りました。朝食にすてきな香りを添えてくださいました。わたしたちはあなたが手紙でおっしゃっていることと、おっしゃりたいことすべてに喜んでいます。でもあなたはビュルナーにそのプログラムを変更させるべきです。「一匹の野うさぎを殺すには猟犬がたくさん要る。」(1)けれどもフラウ・シューマンの場合には「魔の炎」 一曲で十分でしょう。彼女が演奏するなんて信じられません。選曲に品位がありません。真に芸術的な作品と「魔の炎」を同じ夜にどうやって鑑賞させようというのでしょう。まあー、ビュルナー、ビュルナー、私はあなたのことを紳士だと思っていたのに。このプログラムを組むようでは、興行師ではりませんか。絢爛たる「炎の曲」で満場は興奮するでしょう、その夜の栄冠はワーグナーに授けられるでしょう。「おおなんと遙かなる」(2)その他は穏やかなニ長調で、美の光を放ち、心に安らぎの香油を注ぐものですし、「幻想曲」は選ばれし者のために書かれた曲です。これらの前に「魔の炎」を持ってくるなんて。どうしてビュルナーはこう辛抱ができないのでしょう。どうしてワーグナーの魔術をわたしたちの劇場に入り込ませる必要があるのでしょうか。しかるべき場所でもないし、唯一の場所でもないでしょう。
火は主人に見守られて力を発揮する(3)とはいいますが、ニ長調に持ってくるなんて。まあ本当に、本当に。フラウ・シューマンは演奏を拒否して当然ですし、あなたはビュルナーにいって、プログラムを変えさせるべきです。あなたのだいじな、だいじな交響曲のためにも中立的態度を捨てるべきですし、同じ夜に、わたしたちの高尚な本性と低俗な本性に同時にうったえるのは非芸術的であることを悟らすべきです。ラファエルとマカールトの絵が並んでいる展覧会があったら、ビュルナーは何というでしょうか。本当に腹が立ったものですから、何度も同じことを繰り返してしまいました。あなたが少しは憤慨して不機嫌になってビュルナー殿宛の手紙だけではなく、フランツ君宛の手紙を出してくださっていましたらよかったのです。
ハインリッヒはあなたの楽譜を送る準備をしていますが、彼の感激も一緒に詰め込んでいます。ところで、わたしたちの親愛なるフラウ・フォン・Bはまたしても私のお人形を取り上げ(4)、誕生日のお祝いと一緒にユトレヒトのフラウ・エンマに送ってしまいました。お荷物はあなた宛になっています。あなたが適当な洒落を言ってフラウ・エンゲルマンに渡したら楽しいでしょうから。大事なお方にはよろしくお伝えください。彼女はいろんなことができます。白い小さな手で上手に弾くことができますし、鳥のように笑い、だれもが彼女の虜になります。そして子供たちをこの世につれてくるのです。これこそ女のできる最上・最高の仕事ですものね。私の心底からの、惜しみない尊敬の念を彼女に伝えてください。
* * * * *
アムステルダムでニ長調を演奏されるというのは大変な朗報です。お父さまのユリウス(5)もそれを聞かれて、喜ばれることと思います。
さようなら。またすぐにお葉書を送ってくださいね。ビュルナーさんを説得してください。
ぜひそうして、私の尊敬を受けてください。いやとおっしゃるなら、私は苦しむことになります。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
注
(1)ドイツの格言。
(2)デュエット。「修道女(Kloisterfräulein)、作品61第2曲」の最初の行。
(3)シラーの「鐘の歌(Das Lied der Glocke)」からの引用。
(4)おそらくライプツィッヒの見本市の人形。
(5)ユリウス・レントゲン。
27.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年1月31日
あなたのエードゥアルト(1)(Eduard ) がまたわたしのもとに戻ってきました。私はもうなりふり構わず、彼と絶望的な恋に落ちました。この作品がどんなに豪華かあなたには分かっておられないみたいですね。どうか、7ページ、第二小節の伴奏部のコードを直してください。変へ音ではなく、前と同じようにへ音であるべきです。
あなたのご注文ではありますが、私は新聞の批評を同封しておりません。くだらない内容に嫌悪感をもよおしたからです。そんなのにほんのわずかの時間でも割くのは残念なことです。私はウィーン宛で、楽譜と一緒にその貴重なゴミを詰め込むことにしました。ウィーンなら、ゴミ箱があるでしょうから、そこに放り込めば多少は慰めになるでしょう。エードゥアルトはエンマとの面会に間に合うと思います。どうかその美しさをすべて説明してあげてください。エードゥアルトが答えるところの伴奏部のおもしろい変化について教えてあげてください。「鷹(Geier)」の歌詞のところで、伴奏は控えめで、右手のパートは単純で単調ですが、「赤毛(Rotross)」に来たところでの変化です。ここでサブドミナントが導入され、テノールの変ニ音が(以前は9度でした)全く新しい効果を生みます。それから、変ト音に上昇し、再び下降する右手の精妙な小節。最初と同じメロディーとは信じられないでしょう。
それから、母親の問いかけの所で、ピッチを3度、徐々に上げて変ロ単調の素晴らしいクライマックスになることで、この傑作を記述する言葉のやり取りが同じでありながら、まったく違ったものになっています。そしてなんと自然で、無駄がなく、正しいのでしょう。まるでエードゥアルトと母親の興奮した声が最初からその調子であったように、音楽を離れては最初から存在しなかったかのようです。この詩が長く顧みられなかったのはなんということでしょう。ついにある人が通りかかり、心に深く刻み、とうとうへ短調で再びこの世に生を授けわが子にするまでは。
でもこの曲はわたしたちのものでもあります。楽しむ権利はありますものね。その点についてご異議ありますか。
それではさようなら。いやな女と思われたくはありませんが、ドレスデンにはもうお手紙しましたか。私はヘッベル調(2)であなたに要望するものです。
エリーザベト・H.より
注
(1)エドワード(Edward)。「アルトとテノールとピアノのためのバラード」、作品75第1曲。
(2)フリードリッヒ・ヘッベル(Friedrich Hebbel,1813-1863)、ドイツの悲劇作家。
28.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
アムステルダム、1878年2月3日
親愛なる友へ
この際、取り急いでこの短い手紙を書くのは不適切であることを重々承知しております。あなたの一部賞嘆すべき、全体としては心優しく、魅力あふれるお手紙に感謝の意を表するために何かできればと考えております。
賞嘆すべきは「魔の炎」論文です。
私はフラウ・シューマンを慰めの手紙を書き、説得を試みました。しかし、われらの友はあの化け物を全然怖がってはいませんでした。彼女はさりげなく聞くつもりはありませんと返事してきました。
ビュルナーには書いてはいません。私のポケットは回答のない手紙でいっぱいです。私はあなたの論文を送ってみたい気もしています。しかしこの問題は成り行きに任せていかがでしょう。フラウ・シューマンの気が変わらなければ、私はドレスデンに行きますし、あなたも来られることを希望します。 オランダは実に魅力的です。第二番(1)は音楽家にも大衆にも受け入れられ、私の滞在はまずまずです。4日と8日にアムステルダムで、6日にはハーグで公演されます。さらに第一が5日アムステルダムで、いってみれば大衆コンサートですが、公演される予定です。 しかし、あなたは私がエドワード(Edward) (すみませんが、エードゥアルトではありません)を早く返してほしいと考えておられるのですか(2)。私の意志疎通能力の欠如を誇張しておられます。この曲についてあなたのありがたいお言葉を読んで非常に困惑して、独り言を言いました。「なぜあなたはもっと問題にしないのか。もっと良くなるはずだ。」私が間違っているかもしれませんが、興味ある評判ではあります。 私は9 日に発ちます。ほかに送られるものはありませんか。ところで私は、「より重要な」記事のことで払われた面倒にまだ感謝しておりませんでした。しかし、手紙が入っているのが最良の小包です。より大きな感謝に値します。今日の所は、ご主人や皆さんによろしくとだけ申し上げることにします。
いつもあなたの誠実なJ.ブラームス
私が Edward を Eduard と、Symphonie を Sinfonie と綴るとは、私も哀れですね。
注
(1)ニ長調交響曲
(2)つまり出版を急いではいなかった。でも、この年の秋には出版されたのである。
29.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年2月5日
親愛なるブラームスへ
どうかわたしの拙い手紙を笑わないでください。こわくてうっかり手紙を書けなくなります。それはとっても辛いことです。でもその代わりにあなたのアムステルダムからの前便のように得るものがありました。わたしたちは最初のお手紙の返事でユリウス・レントゲンのお話をうかがえるものとばかり思いこんでいました。あなたのお手紙を受けとったときのわたしたちの無念と驚きを想像してみてください。わたしたちはエンゲルマン夫妻から、あなたがオランダで大層もてはやされていることを知りました。オーケストラやコーラスの人々や指導者達が、あなたに桂冠を捧げるのに先を争っているとのこと。オランダ人は決して、普通に思われているほど冷たくはないのが明らかになりましたね。中期ドイツ語に生気が乏しい理由を調べて、何らかの民族学的解答を発見するのも興味深いですね。しかし、わたしはこの古傷に触るつもりはありません。まずあなたに感謝しなくては。あなたは、勝利に次ぐ勝利の興奮の最中、貴重な時間を割いて急ぎのお手紙をこの静かなフンボルト・シュトラーセに送ってくださいました。でもわたしたちがどんなに喜ぶかをご存じだったのでしょう。
天の助けで、Edwardを間違わずに書くことができ、あなたにまた笑われずにすみました。Brahms と書かずに、Brahmst (1)と書いたらよかった。
* * * * *
わたしはあなたが気配りのきく人だとは思ってはいません。あなたが気配りのきく人でありながら、あなたの箱から次々にデュエットを持ち出していったとしたら、あの夜のことはあまりいい思い出ではありません。でも、あなたはこのデュエットを返してくれと言われました。
昨日、あなたは慈悲深い行いの数々をなさいました。あなたは病める者を立たせ、失意に沈む者を癒し、飢える者に食を、渇ける者に飲み物を授けました。わたしたちは気の毒なホルシュタイン(2)を見舞いに出かけ、あなたもご存じのように模範的な二重奏でニ短調(3)を演奏して上げました。彼はソファに横になり、目を輝かせ、楽譜を抱きしめ、おなじみの音を吸い込んでいました。彼が記憶を新たにしたのはこれが初めてでした。親愛なるブラームス、あなたは数多くのことができます。病める仲間の心を喜ばせ、魔法で、彼の頬を色づかせ、目に輝きを呼び戻したのは一例にすぎません。
あなたには天からの挨拶が。そしてユリウス・レントゲンにはわたしたちの挨拶をお伝えください。可哀想に、彼の両親との別れはなんと酷いことでしょう。
さようなら、さようなら。多くの方を幸せにしてください。そしてあなたも幸せでありますように。
おりにふれ、わたしたちことを思い出してください。
あなたのヘルツォーゲンベルク夫妻より
キルヒナー(4)は変ホ調の変奏曲を彼自身が編曲して演奏してくれました。とても素晴らしいものでした。熱烈な崇拝者にして始めてできることです。
注
(1)ブラームスの名前はホルシュタインの彼の関係者の間ではtを付けて書かれており、彼の父はハンブルクではこう呼ばれていた。ブラームスはこれが大嫌いであった。
(2)フランツ・フォン・ホルシュタイン(1826-1878)オペラ作曲家。彼はこの時死の床にあった。
(3)第一交響曲。
(4)テオドール・キルヒナー(Theodor Kirchner, 1823-1903)、作曲家でピアニスト。彼はブラームスの作品をいくつか編曲した。この変奏曲は(作品23)は二重奏であったが、彼はピアノ・ソロに編曲したのである。
30.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年2月19日
親愛なるヘル・ブラームス
たとえ一行でもいいからお手紙が頂けたらと思います。ニ長調のためにドレスデンに行かれる決心をなさったかどうかだけでも知らせてください。わたしたちもぜひ行きたいですから、運さえ良ければ、うまく都合をつけます。ユリウス・レントゲンがあなたはウィーンにとどまって仕事をするつもりだといったものですから、わたしたちは慌てました。あなたは、いろんな試練にあっているフラウ・シューマンをさらに失望させないでください。気の毒な「魔の炎」の犠牲者!ユリウス・レントゲンはアムステルダムで夢中になった人たち話をしてくれました。ここでだれかがそうなれば。生きているうちにそれを見届けることはできないでしょうけど。
* * * * *
ルビンシュタイン(1)は、彼の道連れにはふさわしくありませんが、___(2)と一緒に、ライプツィヒの新聞記事をいれて明日送ります。このお手紙はそのパスポートです。ハインリッヒは可哀想にひどい咳をして、寝込んでいます。悪いことに、土曜日のコンサート(3)までにリハーサルを仕上げなくてはなりません。でも、「もう夜ですから、われらとともにとどまりください」(4)は天国的な曲ですから、ハインツを回復させてくれることと思います。
今日はさようなら。ファーベル夫妻にはどうぞよろしく。
それから、あなたのペンを錆びつかせないでください。ところで、どう返事を書いていいか困っていらっしゃるときは、歌詞はあってもなくても構いませんが、ソルフェージを書いて送ってくれませんか。手の込んだ声楽曲が本当に少ないのです(5)。わたしは今バッハのオルガン・ソナタを歌っています。これは大変楽しいのですが、声楽のために念入りに書かれたものがあればすてきだと思います。言葉ごとにすくなくともに八つの八分音符があれば。それは素晴らしいですわ。一方ユリウス・レントゲンは、あなたのペンによる、手を固定させたままの指の練習曲を待ち望んでいます。アムステルダムではほんの小さな女の子たちもブラームスを演奏したがっているとか。この笛吹き男。
わたしの哀れな主人からもよろしくとのことです。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)おそらくアントン・ルビンシュタイン(Anton Rubinstein)のピアノの新曲。
(2)ライプツィッヒの某作曲家の作品。
(3)ヘルツォーゲンベルク指揮、夫人の伴奏と歌によるバッハ・フェライン演奏会。
(4)バッハのイースター・カンタータ。
(5)ブラームスはこの要望には応えていない。彼女の不満に根拠がないと考えたものと思われる。彼はイタリアの昔のソルフェージュ作曲家をよく知っていた。
31.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年3月1日
親愛なる友へ
ご存じのように、フンボルト・シュトラーセのわたしたちは、あなたの工房から出るものならどんなものでも、歓声を上げて喜んでおります。さらにわたしたちを喜ばせたのはこのゾクゾクする魔女のデュエット(1)です。これは絶え間なくあふれ出る霊感です。このすてきな、古びた写本用の紙(2)もこの曲に合っています。歌詞(3)は血も凍るようですが、この歌詞を先日貸して上げた進歩的な教授には腹が立ちました。彼にはまったく荒唐無稽の印象を与えたようです。彼はグリムのおとぎ話で育ってはいなかったのです。わたしは嬉しくて申し上げますが、母親が煙突から逃げたことを知ってはいましたけど、これを歌うたびに背中を身震いが通り過ぎていきます。わたしはこの曲をレントゲン家の末娘と練習するつもりです。彼女の無邪気で子供らしいソプラノが魔女の娘にぴったりです。わたしは魔女とわかるようにしています。それにしてもなんと楽しいのでしょう。筋書きは最初から分かっていますから、伴奏の低音部が「娘や。今日は五月一日だよ(’S ist heute der erste Mai, liebes Kind! )」の声を強調し、さらに怖がる娘のモティーフが母親の返歌の伴奏部に導入されます(身震いしたい人ならかならず聴き入ります)。これでこの部分は二重奏のようになり、まるで娘の声が聞こえるかのようです。もちろん返歌は、期待通り、問いかけの転回です。そして最後のクライマックスにいたるまで効果があり、エドワード の親子とそっくりです。こんなことはすべてあなたの方がよっぽどご存じのことですから、おしゃべりするのは愚かですね。わたしのペンがこんなに走ってしまったことを恥ずかしく思いますが、あなたは辛抱強い方ですものね。
「村にも魔女はいるの?(Ob im Dorf wohl Hexen sind? )」の Ob をヘル・キプケ(4)に敬意を表して、わたしはニ音の強い拍子で歌いたいのですが、構いませんか。それがとてもうまく合います。エンゲルマンのお父様(5)が今日こちらに見え、誇らしげにお孫さんたちへのあなたの賛辞(6)を読み上げました。あなたが生まれたばかりの子を見もしなかったといって、お祖母様が憤慨していたのが滑稽ですね。
わたしたちのバッハ・コンサートは一週間前に開かれました。オルガン奏者が当日に病気になりましたが、成功裏に終えることができました。 アマンダ・メイアというスウェーデンの綺麗な女の子が助けに来てくれ、見事に責任を果たしてくれました。女もそう軽蔑したものではないでしょう。
ではさようなら。さらにもう一度あなたに感謝いたします。あなたが感動してわたしにご褒美をあげたいと思われたときにはぜひ送ってください。魔女役をすぐに他の人に譲れ、ですって。(変ニ音の恐怖の動機)それにしても、あなたはドレスデンに行かれる予定ですか。フラウ・シューマンと「魔の炎」も? 「娘や。今日は五月一日だよ。」でもわたしたちは暗闇の中です。
ヘル・ジムロック(7)は今日不安そうにあなたの動きを訊いていました。でもあなたは気の毒な「トッゲンブルグ」のアストール(8)にはこのデュエットを聴かす気でしょう。
「行い良ければ、天使はみな平等になり、最後には天国にいけるよ。」
“Guttätigkeit macht Engeln gleich und führt zuletzt ins Himmelreich.“
ではまたドレスデンでアウフヴィーダーゼーン。
感謝するあなたのE.H.より
注
(1)「ワルプギスの夜(Walpurgisnacht)」。二人のソプラノのためのデュエット、作品75の第4曲。
(2)ブラームスは古紙として買った古い写本用の紙が大好きだった。
(3)ウィリボード・アレクシス(Willibald Alexis)の歌詞
(4)カール・キプケ(Karl Kipke)、音楽評論家。ブラームスの誤った朗唱を非難した。
(5)T.W.エンゲルマンの父。
(6)ブラームスのユトレヒトの家族宛のお祝いの手紙。
(7)ブラームスの出版者。
(8)リーター・ビーダーマン社の社長。
32.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
フンボルト・シュトラーセ[ライプツィッヒ]、1878年3月10日
親愛なるわが友へ
ドレスデン(1)でのあの日々を振り返るとき、わたしはこの喜びを否定する気は毛頭ございません。大好きなニ長調は寝てもさめてもわたしたちの脳裏を去りません。こんなめったにない幸せを感謝する言葉もないほどです。わたしはしかし、今回お手紙を差し上げるのはほかの理由からです。わたしはあなたに抗議したいのです。わたしたちは、真剣であれ、冗談であれ、たまたま飛び出す言葉を許しあう、共通の足場の上に立っていると考えます。あなたの周囲でもっとも忍耐強くお香をたいている者の一人からの意見を辛抱して聞いてください。この前提から始めたいと思います。
あなたはシラー・シュトラーセで最初は、優しくて親切でした。窓際の席でのお話も(お酒を全部こぼした後で)、わたしの兄のささいな矛盾を説得的な論理で直したのもとっても楽しかったと思います。それからいやな男の名前が出てきました。そして、あなたは確か、その男がハインリッヒの四重奏(2)を誉めておきながら、その年の冬には、あなたの変ロ調(3)を軽蔑し否定した、あの古い話にふれました。これは独りよがりの皮肉から出たことで、誰かが言ったようにあなたはいつも自分のことをあざけります。でもあなたが話しかけていたのは、公正な第三者ではなくて、この批評家の無知を真っ先に笑うことをあなたが充分ご存じの人物です。イギリスを活動の拠点にするなどという、自分から取り下げるべき考えをもった臆病者に対してではありません。自分自身をあなたの靴の紐をほどくにも値しないと卑下し、真理の追求者であり、謙虚な弟子に対してです。この人にとって、過大な評価は得られるものが皆無であるために、こっぴどい批評よりも千倍も苦痛なのです。こんなことに無頓着である、あなたの雅量のなさ(あえてそう言わせていただきます)は非難されるべきです。ハインリッヒのためというよりあなたのせいでわたしは傷つきます。あなたが彼を理解していないのが悲しいのです。この抗議を去年試みるつもりでしたが、ヘックマン(4)がたまたま居合わせたので、その機会を失いました。またそのときには冷ややかな洒落で押さえ込まれるのではと懸念しました。でも今はもう怖くはありません。率直に申し上げますが、これは親切心からでも正義感からでもありませんし、まったくあなたらしくありません。あなたに適合しない血の一滴のせいであることをわたしは望むものです。出血多量で死なないようとりわけ細い静脈を切ってその血を出しては如何でしょう。
わたしをもっとも傷つけたのは、あなたがさも気の毒そうに「可哀想に、可哀想に」と言ったことです。自分の言葉はある程度考えて使わなければ。でも、あなたが誤解し傷つけている人物は、あなたに人生を賭け、プードルか子供のように、またカトリック教徒が守護聖人を愛するようにあなたを愛しているのです。この場合には、たとえ愛情を上手に表現する才に恵まれていなくても、話は違ってきませんか。この場合に一番傷つくのはわたしです。申し上げておきますが、彼はこの大それたお説教のことを何も知りませんし、心安らかに床につきました。日の出とともに万事正常であることは間違いありません。彼の妻は怒りっぽい質ではありませんが、どうしても怒りをあなたにぶつけるのを押さえきれません。これもあなたが招いたことです。わたしは怒りと同時に悲しくなります。わたしが無条件の誠意と限りない尊敬を与え続けている人に対する不満に耐える以上の苦痛はありません。
あなたがこんな時にご自身が残酷であるとは思ってもいないでしょう。あなたの背中に、こんなことを言わせたり、他人を致命的に傷つけさせたりすることのできる「黒犬」の一種が(おかげさまで身近には知りませんが)いるからです。致命的であることが分かったら、あなたはそれを捨てるでしょう。あなたは心の底では親切な方で、真の愛情に対して意識的に軽蔑を投げ返すはずはないからです。
あなたの庭からこの毒草を取り除いてください。そしてこの際のない手紙のせいでわたしを憎まないでください。女というものは簡潔ではありえませんものね。
わたしがあなたから短いお手紙をうけとるまでは(そうしたら一年で許して上げます)、わたしの「心の苦しみ」(5)をあなたのコラール前奏曲で癒します。これは諳んじていて、暗がりでも一人で演奏できます。深甚なる尊敬をヨハネス・ブラームス様に。心からの握手を。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク(6)より
注
(1)ニ長調交響曲は3月6日の灰の水曜日にドレスデンの王立オペラ劇場で宮廷楽団により演奏された。
(2)リーター・ビーダーマンから出版され、ブラームスに献呈された作品42の3曲中の1曲。
(3)変ロ調の四重奏曲、作品67 。
(4)ロベルト・ヘックマン(Robert Beckmann,1848-1891)、バイオリニストで弦楽四重奏団のリーダー。
(5)オルガン曲、「おお悲しみよ。おお心の痛みよ」の主題によるコラール前奏曲とフーガ。Musikalisches Wochenblatt の付録として発表された。
(6)ブラームスの返事は無くなっている。次の手紙からはブラームスが返事を書き、フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクをなだめるのに成功したことは明らかである。
33.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年3月13日
* * * * *
…ではこれからは、編集記号にはあまり注目しないことにします。でも少し直した方が良いと思います…「心の苦しみ」の前奏曲大変ありがとうございます。わたしたちはこの曲が大好きですので、ほんの一部でもあなたの自筆による曲を頂けるのは格別嬉しいのです。わたしはこれを持って大声でキルヒナーに知らせにいき、彼を興奮させてしまいました。たまたまアストールが来ていました。あらゆるものがこの小品に表現されているのに驚きました。あなたはたとえ持ち合わせが乏しい時でも、ただ腰を下ろしてこの曲を楽しむという贅沢ができるのですね。この曲のあらゆる技法はただ情念を高めるために駆使されています。
ドレスデンの批評界の大御所H__氏は、ニ長調の第一楽章の提示部がなぜ繰り返されるのか理解に苦しんでいます。彼はまた、あなたがこれまでいい仕事をしてきた室内楽になぜ限定しないのか、そしてそのついでに、すべての流れが不可避的に注ぎ込まれる、主流である楽劇をなぜ試そうとしないのかと、詮索しています。アダージオのテーマが少し対位法的であることに気付いておられませんか。ドレスデンの人たちはあなたの魅力的な正体に気付いてきたようです。大成功であったことは認めています。わたしは、あのお馬鹿さんたちがあなたを罵倒すれば良かったのにと思います。リーゼ(1)の歌が洗練され真摯であり、ベートーベンの精神に則っているというのですよ。いずれにしても、公演というものはこわいですね。誰がそんなことを言っているのか知りたいものです。――さようなら、ご親切な方。本当に直してみてください。その価値はあります。
エリーザベト・H.より
本当にあなたが削除したあの下の部分が分からないのが残念です。
注
(1)ドレスデン・オペラ劇場のテノール歌手。彼はブラームスの交響曲が演奏されたコンサートでベートーベンの「遥かなる恋人によせて(An die ferne Geliebte)」を歌った。
34.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1878年3月]
親愛なる友へ
ここに手紙を書く気になるまではしまっておきたかったノッテボーム(1)文書があります。
… 私は四重奏曲(2)に感謝します。
一瞥しただけですが、良い印象を持ちました。今夜はこれで楽しく過ごすことになりますが、待ち遠しくなりました。 では取り急ぎ失礼します。
誠実なるあなたのJ.Br.より
注
(1)書簡3の注記。
(2)書簡32の四重奏団。
35.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1878年4月3日]
ナポリのポステ・レスタンテ宛の手紙は4月14日から20日(1)までは下記署名者に届きますことを、尊敬する後援者の皆様にご通知申し上げるものであります。20日以降はローマに。彼はビルロート(2)とともに旅行し、手紙を書くこと、足を切断すること、その他あらゆるご注文に応じる所存であります。ご注文は彼と仲間によって細心の注意を払って実行されます。それ以上の計画はございません。おそらく5月の中旬にはウィーンに戻ってまいります。 では失礼します。
J.Br.
注
(1)ブラームスはビルロートとゴルトマルクとともに4月8日に最初のイタリア旅行に出た。ゴルトマルクはローマに残り、「シバの女王(Die Königin der Saba)」の最終リハーサルを監督した。一方、二人はナポリに向かったが、ビルロートはブラームスがイタリアの充分な印象が得られるよう配慮した。「私はローマを見たのでまあ満足です」とブラームスはエルネスト・フランク(Ernest Franck)に書き送っている。「帰る途中で見ます。その他すべては散漫なものです。」帰途彼はペルチャッハでしばらく逗留し、ウィーンの友人のクーペルウィーザー博士とフランツ博士と出会った。「最初は非常に快適なのでもう1日泊まらねばと思いました」とアルトゥール・ファーベルに書いている。「しかし二日目が非常に快適であったので当分腰を据えることにしました。」
(2)テオドール・ビルロート(Theodor Billroth, 1829-1894)は高名なウィーンの外科医で、熱烈な音楽愛好家であり、1866年にチューリヒで出会って以来ブラームスの親友であった。
36.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年4月9日
親愛なる友へ
イタリアに発たれるもうすこし前に知らせてくださればと思います。あなたがアドルフ・スタール(1)やその美学の追従者の目ではなく、ご自身の目で約束の地をご覧になられることを期待いたします。いずれ自分の目で鑑賞したくなるだけですから、受け売りの印象は無意味です。あなたが楽しみを求めて出かける観光客とは思いません。あなたの役目は人に楽しみを提供することですから。今あなたは急に、受け身の役を捨て積極的な役を取ろうとされました。この旅はなんと新鮮なのでしょう。それにあなたは、稀にみる非凡な感覚をこれまでに蓄えられてこられました。あなたはきっと貪欲にすべての美を吸収されることでしょう。
わたしたちはイタリア旅行の件を昨日フラウ・シューマンから伺いました。あなたからお知らせの葉書がなくても、今日にも祝福の手紙を書かれるそうです。わたしたちはやはり、あなたが長い休養を取られるのではないかと思いました。でもあなたがペンに休養を与えたら、わたしたちは一体どうなります。
あなたと違って、わたしたちには楽しい時間は取れそうにもありません。わたしたちはわたしの年老いた叔父のお葬式でドレスデンから戻ったばかりです。
わたしがこんな紙切れに書いているのを不思議だとは思われませんか。わたしは書き物机の鍵をドレスデンに置いてきてしまったのです。仕方なく、ペンもインクも紙も、人生を生きるに値するものすべてがない状態で、鍵のかかった抽斗の前に腰掛けております。わたしの唯一の財産は兄からもらった複写セットです。これは書いたものを二重に記録してくれ、洗濯婦に、いえたとえ名士といえども、リストを書いておかなければいけないと思った場合には重宝です。あなたにこの複写の手紙が届いてなくてよかったですね。あるいは、諳んじて書いたニ短調の第一楽章を送っておくべきだったかもしれません。これはあなたが、いつかご覧になって喜ばれると思います。フラウ・シューマンはピアノ編曲になるとまでいってくださいました。でもわたしは、この愛すべき女性の言うことをそんなに真に受けてはいません。彼女はこの世で生きていくには人柄が良すぎます。たまたまあなたはこの苦しみから逃れておられます。その意味でもう一度おめでとうと申し上げます。愛すべきフラウ・シューマンはフランクフルト(2)に決められました。わたしは、幸せであるべき彼女が、ここで本当に幸せになられるように祈ります。
… それからアルトゥール(3)も一緒ですか。彼もいらっしゃるのですか。あなたは「シバの女王」の召使い(4)のことだけ書いておられるものですから。
それではわたしたちの好意をお受けください。わたしたちはあなたが楽しい時を過ごされるのを心底喜んでいます。陽光あふれるイタリアの景色がケルンテンの景色とおなじように、あなたに微笑みかけることでしょう。ですから昨年のようにメロディーをどっさりおみやげにして帰ってきてください。評論家たちもその説明の仕方が分かるようになるはずです。
さようなら。お幸せで、おりにふれお葉書を下さい。
あなたの誠実なる友エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)アドルフ・スタール、イタリアに関する著述で知られる。
(2)フラウ・シューマンは1878年ベルリンからフランクフルトに移り、1896年に死亡する数年前までホッホ博士(Dr. Hoch)の音楽院の教授であった。
(3)アルトゥール ・ファーベル。
(4)ゴルトマルク。
37.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年4月9日
親愛なる友へ
われらのホルシュタイン(1)の病状は急速に悪化しています。せいぜい二、三週間保てばよい方です。彼は絶え間ない苦しみにさいなまれております。医師は最初、胃の硬化、あとで癌と診断しました。しかし彼の精神は明晰です。周囲の人に対する心遣いを見ているのは苦痛です。彼は心の平安と勇気そのものです。私はこれほど感動的な最後を見たことはありません。遠くからであれ、近くからであれ、愛のしるしを感じたときに、この人の目が輝くのを知ったなら、あなたは彼に最後の言葉を贈りたくなるでしょう。彼はあなたに非常に忠実でした。親しい手紙を書いて頂けませんか。彼は仲間のうちで一番優れた人から哀悼の言葉を受けるべきです。
私たちはほとんど毎日見舞いに行って、数年前からその兆しがあった病気が恐るべき勢いで進行していくのを見続けました。彼の容貌は急に変化しました。昨日までは、話したがり、笑っては、いろんなことに興味を示しました。不幸な奥さん(2)は3週間前の診断の後ですっかり取り乱しました。彼の危篤が最初に確認されたそのときには、われわれが驚くほど気丈にしてみえたのに、彼の前では冷静さを失いました。今では、彼女は彼の感動的な態度ですっかり変容したみたいです。
家全体が休息するに相応しい美しい教会のようです。苦痛ははっきりと和らげられ、人の魂までつらぬく霊感のひらめきがあります。
私たちはあなたが彼のことが気がかりだと思いますので、またすぐにお知らせします。数日後には気が進まないのですが、私たちはライプツィッヒを離れます。別の所で用があるからですが、毎日知らせを受け取ることはできます。
私の妻からもあなたによろしくとのことです。
いつまでも誠実なあなたのヘルツォーゲンベルクより
注
(1)書簡29.
(2)ヘドウィク・フォン・ホルシュタイン旧姓ザロモン(Hedwig von Holstein geb. Salomon) 、彼女の素晴らしい人柄は、ヘレーネ・フォン・ヴェスケ(Helene von Vesque)の小説「幸せな女(Eine Glückliche)」で長く記憶されることになった。
38.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年5月17日
親愛なる友へ
気の毒なホルシュタインの悲しい知らせはまったく予想しないものでしたので、苦しみと同時に驚きました。私は彼にも彼女にも手紙を出しても意味がないように思います。私が同じような状態になったとしても、私は一番の親友からも見舞いの手紙を期待しません。しかし女性というものはこのような場合に、慰めを欲しがることも私は承知しております。ですから、さしあたり私の真意を伝える役目をあなたにお願いしたいのです。彼女はあなたの旅立ちを痛切に感じておられるはずです。なんとも気の毒です。親身の同情が結局一番慰めになり、助けになるのです。情報を求めるために手紙を出すということは、かえって悪い場合や回復の見込みがない場合には、悲劇です…私はあなたがオーベルホーファー博士の家に泊まる予定だと言っておられたのを覚えていますが。私は彼とローマで会い、そのことを思い出しました。
あなたとウィーンでお会いできればいいのですが、私はデュッセルドルフ(1)に行かなければいけません。
病める者に私からの愛を差し上げてください。彼の不幸な奥さんはすべてが終わった後、いったいどうしたらいいのだろう。この恐るべき初めての日々に一体誰が彼女を助けてくれるのでしょう。ゼーブルグ博士夫人(2)はいますか。よろしくお伝えください。
あなたのJ.ブラームスより
注
(1)ブラームスはデュッセルドルフに行き、第55回ニーダー・ライン音楽祭で第二交響曲を指揮する予定であった。衣装のことを口実にしてこれを取り止めたのであるが、実際は創作意欲がわいてきて仕事を中断したくなかったのである。5月20日にアルトゥール・ファーベルに書いている。「音楽祭のためにドイツに行くよう要望があったけれど、ようするに夜会服だ。これはもうすましたと思ったのです。」7月にはベルタ・ファーベルに書いている。「まずあなたのご主人は古い服を送ってくれないでしょう。次に、素敵なチョッキの代わりにうっかり食器棚に吊るしておいたのを送ってくれるでしょう。デュッセルドルフで新品を買わなくてはいけない、という理由でお断りしました。これがこの状況ではいたしかたのないことでした。」明らかに、この言い訳を真面目に受け取ることはない。ヨアヒムが代わって指揮し、交響曲は熱狂的に支持され、第三楽章は繰り返さねばならなかった。
(2)フラウ・フォン・ホルシュタインの妹。
39.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ハウス・ザメックス [ガイルターレのアルノルドシュタイン]
1878年8月10日
親愛なる友へ
このお手紙の正当な持参者はさらに帽子をもってペルチャッハに参上いたします。この帽子をご自身用にお使いくだされば幸いです。これは、あなたが気に入っておられたハインリッヒの帽子とは実の兄弟で、あなたの黒いフェルトよりは額にくいこまないでしょう。母がトランクにもう一つ持っており、喜んであなたに差し上げたいとのことです。あなたの趣味を知っておりますので、周りにリボンを縫いつけようとしましたが、それではこの型を崩すことになるので止めました。
わたしたちはあなたの家で雨宿りした楽しい時間を今でも懐かしく思い出しております。あなたがあのモテット(1)をアルノルドシュタインに持ち出すことを許してくださって、わたしは大変嬉しく思います。わたしの目は鈍いものですから、あの種のものを細部まですばやく取り込めませんでした。最初は、大聖堂のネイブに、それも夕日の時刻に入ったときに受ける、香しくも茫漠とした印象でした。すべては明るくて色彩的であり、全体の効果を考えた素晴らしい技法がかすかに感じられただけでした。でも明晰な鑑識眼で全体を見なおすには時間と日の光が必要です。この曲の精神に浸った今、わたしが愛する対象の個々の特徴や美しいさわりを選り出すことができます。これほど楽しいことはありません。
わたしたちの若いイギリスのお友だち(2)から手紙を受け取りましたが、彼女は、「愛の歌(Liebeslieder)」のアルト、テノール、バスの部でまったく音楽的素養のない三人を徹底的に訓練して、今では彼女と歌って満足できる水準に達したとのことです。彼女は民謡を隣人に、彼女の話では、「愛の歌」,「五月の夜( Mainachat)」,「永遠の愛(Von Ewig Liebe )」(3)それにあのピアノ協奏曲のアンダンテの入った小コンサートを開いてブラームスを「接種」しようとしています。彼女はこれがもっとも相応しいプログラムであるとかたく信じています。
それからお願いがあります。母はここでいたいけな人(4)の健康に変化が起きたらと心配しています。お医者さんに看てもらえるでしょうか。ペルチャッハにはお医者さんは誰もいませんか。ぜひ一人教えてください。
さようなら。あなたの善意のお行いにあらためて感謝いたします。
あなたの誠実な友エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
ぜひアルノルドシュタインにいらしてください。
注
(1)「なにゆえ悩む者に光をたまわり(Warum ist das Licht gegeben dem Mühseligen)。」混声合唱のための二つのモテット、無伴奏、作品74の第1曲。ジムロックから1879年に出版。
(2)エセル・スマイス(Ethel Smyth)、ピアニストで作曲家。当時ヘルツォーゲンベルクに教わっていた。彼女の作品には、ワイマールで公演された「ファンタジオ(Fantasio)」、大陸およびコベント・ガーデンで公演された「森(Der Wald)」、1907年にライプツィッヒとプラハでの「難破者(Strandrecht)」――1908年にはロンドンでニキシュ指揮でのコンサート形式で公演――が含まれている。その他室内楽多数。
(3)二つの歌曲、作品43。
(4)フラウ・エリーザベトの姉。
40.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年8月12日
親愛なる友へ
ここには若い結核医が一人いますが、彼自身が目下病気療養中ですから、お姉さんの診察にはまずいけないと思います。
アルノルドシュタイン訪問以外のことは省かせてもらいます。あなた方のこちらへの訪問と帽子に関する長時間の議論(じっさいH.の方がずっと似あいます)に感謝します。
あなたのモテット交換(1)には驚きました。私の作品をあなたが専有している限り、愉快とはいえませんが、一方では他人の作品を注意深く見る機会ができるので愉快でもあります。研究を要するが、その報酬もあるでしょう。
そちらの家の名前とあたりにホテルがあるのか、また選択の可能性が多いかどうかお教え願います。
お会いするまで、まずは取り急ぎ。
ご存じの通り、誠実なるあなたのヨハネス・ブラームスより
注
(1)彼女はブラームスに夫のモテットを代わりに送っている。ヘルツォーゲンベルクのモテットの4曲はリーター・ビーダーマンから出版された。
41.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[アルノルドシュタイン]、1878年8月15日
親愛なるわが友へ
このお手紙はあのモテットのその後についてです。あなたがご親切にもこの貴重な歌をわたしたちに持ち出すことを許してくださったとき、わたしは、半分はわたし自身に「それとモテットも」と申しました。お返事がないものですから、暗黙の承諾と受け取り、ほかのものに一緒にしました。でもこれは大事にしてありますし、わたしたちが存分に可愛がったあとで、良い状態でお返しいたします。まあそんなに怒らないで。この窃盗事件の犯人はわたしです。でもわたしはあなたが意味ありげにウィンクしたものと思っておりました。「なぜ、なぜ(Warum? Warum?)」(1)このとびっきりの喜びを出し惜しみされるのですか。第一楽章では感激を押さえられませんでした。最初のページ(2)と次のページの「なぜ」までは、「そして来るなかれ」の見事な節付け以外何もいうことはありません。アルトの切分、とくに係留したホ音は愛らしすぎます。わたしは小節ごとに感嘆符をあなたに分けて上げることにします。
わたしたちはグルムの宿に泊まっていますが、わたしたちの二部屋のほかは一部屋しかありません。でも保養客は少ないので、たぶん空いているだろうと思います。もう一軒宿がありますので、いらっしゃる前にお便りを頂ければ、ハインリッヒが手配できると思います。アルノルドシュタインは大変快適です。あなたのよれよれの本(3)にも書いてあるとおり、「楽しい位置」にあります。欠点としては、蝿と鴨の群がいること、騎兵分隊がここに駐留しているのでのどかな景色にそぐわないことです。いいことは数多くあります。青々とした植物、この上なく綺麗な岸辺、広々とした樅の森、ヴェルデンよりも澄み切った空気、ドブラッチの輪郭を前景にしたガイルタールのうっとりする山並みがあります。植物のように静かに過ごすには良い所です。でもどうしましょう、あなたにはお魚がないのです。早いお返事であなたの忠実なヘルツォーゲンベルク夫妻の心を喜びで満たしてくださいますよう。
注
(1)モテットは 「なぜ、なぜ」で始まっている。
(2)楽譜の7ページ8小節と12小節。
(3)ヴァルヴァサドール、「ケルンテンの歴史」
42.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年9月7日
親愛なる友へ
私はアルノルドシュタインに明日日曜日11時21分に到着する予定です。もし私の手紙が私より先に到着し、タルヴィス、ヴァイセンフェルスあたりに足を延ばしたいお気持ちがあれば、私の切符も買って駅にいてください。あるいは二度とそちら来られる予定がないのであれば、私はアルノルドシュタインに滞在することにします。
あなたのJ.Brより
(もちろんこの手紙はH.とEl.双方に宛てたものです。)
43.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[アルノルドシュタイン]、1878年9月12日
親愛にして善良なる友へ
もしやお知らせを受け取っていない場合を考えて、オイゲニー(1)から伺ったことをお知らせします。彼女のお母さんはキールにはいません。このことはとくに問題はないのですが、現在は、いくぶんか快適な空気で彼女の腕(2)を癒す目的で、ほんの短い期間リューデスハイムに滞在します。今週末にはフランクフルトに行きます。その間にマリー(3)がフランクフルトに来ています。フェリックス(4)が大変危険な状態のようです。オイゲニーによれば、片肺は手遅れですが、もう一方の肺は治る可能性があるとのことです。彼女たちはフランクフルトに近いファルケンシュタインの療養所につれていくことを提案しています。今週末には、オイゲニーが彼を連れて療養所を見にいき、もし彼が気に入ればそこにあずかってくる予定です。
あなたがわたしたちを訪問して頂いたことをあらためて感謝いたします。ご存知の通り、わたしたちはあまり派手には騒げなかったのですが、ご訪問でわたしたちが幸せであったことをご確認頂けたと思います。博士様、あなたと散歩に出かけることは、名誉と感激であるばかりではなく、心にふれる悦びでした。列車が蒸気をはいて行ってしまってから、わたしたちはまた静かな生活に戻りました。ヒルデブラント(5)は顔を出しませんので、このわびしい部屋での自然と仕事との交わりの中で、唯一の気晴らしになるのは、あなたと過ごした日々の貴重な思い出です。彼は今腰を下ろし、四重奏曲の楽譜に向かっているところです。新しいテーマと変奏の音符に譜尾を打ちながら、洗礼者ヨハネの唇から漏れる一言は、たとえ全能の神によって書かれたにせよ、「作曲様式」(6)にかんする百の論文より価値があると思っております。
わたしは今、ロ調と嬰へ調とイ調の三つの単調からくる熱に断続的にうなされていますが、わたしの料理の本にはこの治療法はのっていません。
ええたしかに、この部屋にはあらゆる種類の霊がさまよっていて、迷信深いわたしたちは追い出さないように気をつけています… では今日のところはさようなら。ドレスデン近郊のホステルウィッツの宛先を送ってください。それともライプツイッヒの宛先にしますか。そして心の片隅に友愛の心をお願いします。それを考えるだけでこの上なく幸せなのです。
いつも誠実なあなたのエリーザベト・H.より
注
(1)オイゲニー・シューマン(Eugenie Schumann)、ロベルト・シューマンとクララ・シューマンの4番目の子供で末娘。
(2)フラウ・シューマンは数年来腕の神経性リューマチを患い、しばしば演奏ができなかった。キールのエスマルク医師(Dr. Esmarch)はこの治療に当たっていた。
(3) 一番年上の娘。
(4)末っ子で最も将来を見込まれた男の子。シューマンがエンデニックの精神病院に入院中に生まれた。彼の詩はブラームスの歌曲の題材になっている。作品63の第5曲、第6曲、作品26の第5曲である。1879年結核で死亡。
(5)アドルフ・ヒルデブラント(Adolf Hildebrand,1847―)、彫刻家でマイニンゲンのブラームスの記念碑、ヘルツォーゲンベルク夫妻の墓のレリーフを製作した。
(6)リヒアルト・ポール(Richard Pohl, 1826-1896)、雄弁なワーグナー信者。Musikalisches Wochenblatt で「いかなる様式で作曲すべきか」のタイトルで、若き音楽家への手紙の連載を寄稿した。(7)1876年に出版された3つのピアノ作品、作品76(1巻の第1曲と第2曲、第2巻の第7曲)のキー。
44.ブラームスからエリーザベト・ヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年9月14日
フラウ・プック
小売店主の妻、
クラーゲンフルト
ブルクガッセ
(パン屋のエンペルガーズ)
これが郵便局長の奥さん(1)から知り得た宛先です。それではどうも。あなたのお手紙と私の楽しかった訪問に感謝します(私は若い貴婦人にも同等の感謝をしております)。
フロイライン・ポストはすすんでお手伝いしてくれますが、困ったことに、いまのところこのお茶だけはどうもいただけないです。フラウ・プックをためしてみてください。もしうまくいかなくても私を責めないでください。
J.Brより
注
(1) フラウ・ウェルツァー、ペルチャッハのホテルと郵便局の女主人。ブラームスとは仲がよかった。フロイライン・ポストは彼が娘に付けた名前である。
45.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年10月4日
親愛なる友へ
あなたが原作者であることの証拠は王家の獅子風の筆致だけですから、これからは、あなたのモテット(1)を不当に占有するのはいとも簡単になりますね。では、この問題を解決する調停裁判所はどこにあるのでしょうか。私は正直ですから、ときおり作品をお預かりして、写させて頂くというのはいかがでしょう。あなたは安心して、写本用の用紙の山を探し回ることもなく心穏やかに眠れます。
わが家はごった返し、ほこりで息が詰まりそうです。妻が料理しているときは、私は雑役夫です。それでもめどが立ってきましたので、まもなくいつもの快適な日常生活に戻ることになるでしょう。
あなたがライプツィッヒ(2)におられたときには、私たちはウィーンで一日を過ごしていました。今度はちょうど逆ですね。これではまるで全員が場所を替えたがるおとぎ話ですね。しかし、ケルンテンでの出会いの記憶、一月の再会、バイオリン曲(3)が聴けるという期待で、私たちは落ち込んではいません。非常な情報通である人物から、あなたが第三交響曲を書き終えたと伺いました。それもト短調だとか。あなたご自身はご存じでしたか。私たち夫婦からよろしく。
ヘルツォーゲンベルクより
(エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクから追伸)
よせばいいのに交響曲を作曲した人は誰か当ててみてください。わかりませんか。リヒアルト・ワーグナー(4)です。わたしたちはとうとうこの久しく求められていた模範を聞かせて頂くことになります。この曲は、わたしたちを最初の部分の繰り返しから「解放」し、アラビア模様をつなぎ合わせて、形のない神秘的形式を開示してくださるはずです。わたしたちはこの邪悪な騒音と評論家と称する人たちのおしゃべりを心待ちにしています。フィリシテ人どもは「ジークフリート」と「神々の黄昏」に歓喜し、騒ぎたてています。見本市のアトラクションで一番の人気はこの曲です。みなさんはウィルト(5)とファフナーのどちらを崇拝していいのかも分かっておりません。
こちらに戻って、気落ちすることが多々ありました。エンゲルマンは気の毒に重態です。ぞっとする病名です。でも彼は回復しつつあるように見えましたし、奥さんも以前よりは元気です。この老人はソファに横になり、病気にいらだちながらも、彼が描いた魅力的なヴィーナスとキューピッドの小品をながめて心を慰めています。
わたしたちのイギリスのお友だち(6)はユトレヒトでエンマの家に泊まっています。ここで彼女はホルン・トリオとハ短調四重奏が聴けるので大変ご機嫌です。わたしたちはあなたの伝言をすぐにリンブルガー(7)に知らせることができます。いつ、いつフンボルト・シュトラーセにみえる予定ですか。あなたにはぜひ来ていただきたいと思います。わたしたちはフィリシテ人の水の中にいる魚のような気がしてなりません。それでは。
妻より
注
(1)書簡39-41。
(2)ブラームスはフィルハーモニック協会の50周年(9月25-28)に招待された。彼は第二交響曲を第三夜に指揮し、帰途ライプツィッヒに立ち寄った。
(3)バイオリン・コンチェルト、作品77とバイオリン・ソナタ、作品78の作曲は1832年の夏に開始され、晩秋に完成した。
(4)1832年に作曲され、翌年プラハとライプツィッヒで演奏された交響曲。一時ライプツィッヒで短期間復活した。
(5)マリー・ウィルト(Marie Wilt, 1833-1891)、ウィーンの宮廷劇場のプリマ・ドンナ。彼女はライプツィッヒではブリュンヒルデ役を演じた。
(6)エセル・スマイス。
(7)ブラームス、作品40と作品60。
(8)ゲバントハウス委員会の理事。
46.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年10月18日
親愛なる友へ
あなたがブレスラウで指揮されるというのは本当ですか。わたしはこの知らせを信じられませんでした。計画をやりくりされて、ひょっこり現れるものとばかり思っていました。あなたの出席がフラウ・シューマン(1)のために計画した一番の目玉でした。このおめでたいときに来ないままでは、あの方を傷つけます。そのようなことは絶対になさらないでください。お手紙をぜひください。お会いできる見込みが立ちますし、コーヒーも煎っておきます。あいにく、今回はあなたをお泊めできません。その楽しみは一月にとっておきます。余分の部屋は虫食いだらけで、壁紙がはげ落ちています。ほかの部屋はフィリュ(2)が使っています。では取り急ぎ
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1) 1878年10月20日のフラウ・シューマンの演奏生活50周年の祝賀会(グラーツのピアニスト、カロリーネ・ヴェルターレルによるゲバントハウス・コンサート)。彼女に敬意を表し、14日には、シューマンの作品からなるコンサートがゲバントハウスにて企画され、黄金の月桂冠が捧げられることになっていた。ブラームスはブレスラウで22日に第二交響曲を指揮し、イ長調の四重奏を演奏するために出席できなかった。
(2)マリー・フィルンガー。
47.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年11月17日
(1)
E.H.
注
(1) 「わたしを哀れみください。憧れのインテルメッツォを送ってください。」ブラームスはカプリッツォとインテルメツィの新曲(作品76)を9月のアルノルドシュタイン訪問中に夫妻に弾いてみせた。上の手紙はイ短調のインテルメッツォを記憶したものである。フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの鋭い耳と素晴らしい記憶力の証拠である。
48.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
ウィーン、1878年11月
親愛なる友へ
今回私が送れるのはこれだけです。あなたがこんなに魅力的(1)に歌うロマンス(Romanze)は申し訳ありませんが、私の写譜職人の手が空いていないので、そこには入っていません。ですから、いずれかお持ちされたい場合には、ライプツィッヒで写譜を頼み、そのうちに私の譜を送り返してください。
長い手紙に返事を書けないのはなんと残念なことでしょう。私にはそれが楽しみなのに。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
注
(1)前の書簡の歌曲。ブラームスは後に「二人の甘い女の声と二人の甘い阿魔の声に捧げるロマンツェ(Romanze für 2 zarte Frauenstimmen und 2 zarten Frauenzimmern gewidmet)」と書き込んで送っている。
49.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年12月13日
親愛なる友へ
わたしは長く待ちわびたピアノの作品を送っていただきながら、一言のお礼も言わないまま今日を迎えました。そのせいで、わたし自身もその通りと思っていますが、恥知らずと非難してみえるのではないでしょうか。本当にわたしは、プードルのように恥じ入り、あなたが一生手紙を下さらないのではないかと、何のようにといったらよいのか、ただひたすら恐縮しております。もちろん、わたしは言い訳を何ヤードでも繰り出して、自分を正当化できるかもしれませんが、そうはしたくありません。かかる怠慢には適切な言い訳はありませんから。こうして、わたしは自分の罪を意識しております。あなたのお許し、免罪、恩赦その他すべてをお願いするものです。
ご存じのように、これらの大事な作品は写譜職人のところにあります。ライプツィッヒの写譜職人は仕事が遅いのです。でも明日には送り返します。ロ短調(1)のものは、練習してみると、なんとも楽しいものですから、わたしが取っておき、わたしの代わりにイギリスのお友だち(2)に写譜してもらっています。でも言っておきますが、わたしには、何処を探してもいない、すてきなイギリスの女の子がついています。
さてバイオリン・コンチェルトは本当にまだ完成していないのですか。そのことを嘆く声をユトレヒトから聞きましたが、それは信じるつもりはありません。仕上げる前に約束するなんてあなたらしくもないですから。あなたはアルノルドシュタインでわたしたちにちゃんと約束されました。ああ、あの眠気を誘う、懐かしのアルノルドシュタイン。そこでは対位法を楽しむ時間がいっぱいありました。ここでは料理と雑役を交互に繰り返しています。家政の恐るべき重荷がわたしの肩にのしかかり、ちょっとした息抜きにピアノの前にすわっています。いろんな理由で、わたしは一月を待ちこがれています。料理のできる人が来てくれて、正常に戻りたいものです。コンチェルト持参は問題ではありません。とにかくいらっしゃいませんか。さてここらで止めなくては。ロ短調の写譜職人さんが休ませてくれません。あなたが美しいものをみたければ、最後の8小節をご覧なさい。わたしたちは飽きることなく、繰り返し演奏しました。
わたしはまもなく、これらの曲を演奏しに、ユトレヒトのエンゲルマン家に行く予定です。はじめてエンマを出し抜けるとはなんという勝利の快感。
わたしの現在と未来永劫のお気に入りは嬰へ単調(3)です。わたしはそれを正確に理解していて、ピアニストの端くれであるからには、妙なる演奏ができると自負しています。
ではさようなら。わたしが悪かったものですから、嬰ハ単調(4)もロマンスも頂けないことを承知しております。
ハインリッヒ(彼は仕事で大変忙しくしています)からよろしくとのことです。エセル・スミスからも。彼女は大変美しいガボットとサラバンドを作曲しています。わたしたちは心待ちしていますので、あなたの訪問のときをお知らせください。
忠実なあなたのヘルツォーゲンベルゲより
注
(1)カプリッチォ、作品76第2曲。
(2)エセル・スマイス。
(3)作品76第1曲。
(4)作品76第5曲。
50.ブラームスからエリーザベト・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1878年12月15日]
親愛なる友へ
あなたが受け取ったかどうかを知りたかったのです。受け取っていないと厄介なことになります。あなたはいろんな言い訳にパテ・ド・フォアグラをかけておくのをお忘れです。ユトレヒトのエンゲルマン演奏会が終わったら、ロ短調をエンマに代わって彼に演奏して上げてはいかがですかな。あなたは信じられないし、その気もないでしょうが、私は大変慎み深い男でありまして、かかる優しい心遣いでご機嫌を伺うような真似はいたしません。
さて、私には特別なお願いがあり、これをそっくり実行して頂けるか葉書で返事を下さればありがたいのです。毎日リンブルガー領事に手紙を出そうとしていますが、あなたかヘルツォーゲンベルクが彼と面会して、私が新年には行きたくないことを理解させてほしいのです。ヨアヒムがこちらに来る予定で、彼とコンチェルトを試す機会を持ち、公演に向いているかどうか判断したいのです。それがかなり満足のいくものであれば、あなたにもいずれ聴いて頂けると思います。領事は私を招いて、ハ短調(1)その他を指揮させようということですが、どうしてもその気にはなれません。そちらの指揮者は何のためにいるのですか。印刷される前には、そしてそのときだけですが、自分の作品は自分で演奏したい気になるものです。
ヨアヒムは非常に忙しく、あなたの場合と同様、私の写譜職人も仕事をこなし切れません。彼がきちんと写譜された自分のパートは手にするのは明日が初めてです。彼には29日とそれ以外にも大きなコンサートの予定があります。領事にこのことを話してください。とにかく、領事にすぐにも会って頂くのが切実なお願いです。彼に最後の返事を書いた気持ちになりたいのです。
* * * * *
結局葉書ではなく便箋で書いてこられることになるかもしれませんが、オランダでは大学の休みが始まっているか、それとあなたのユトレヒト訪問の裏に何か悪いことでもあるのか教えてください。
グリーク(2)もライプツィヒにいましたが、うまくいきましたか。私はリーターの新聞(3)で彼の公演の悪評を今読んだところです。つまり希望がもてるということですな。
さて私のことばかり書いてしまいました。深くお詫びします。内容を変更するのはもう手遅れです。
誠実なるJ.Brより
注
(1)第一交響曲。ゲバントハウスの新年のコンサートで再度公演されることになった。
(2)エドワルト・グリーク(Edvard Grieg, 1843-1907)、ノルウェーの作曲家。
(3)Allgemeine Musikalische Zeitung。リーター・ビーダーマン社発行。1866年に設立し、1882年に廃刊。1869年以来はフリードリッヒ・クリサンダーが編集。
51.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年12月15日(1)
親愛なる友へ
とっても気が進まないのですが、あなたの美しい音楽をお返しします。もしあなたがわたしの返還を評価されたしるしに嬰ハ短調とロマンスを送ってくだされますならば、あなたの献身的な奴隷になり、24時間以内にお返しすることを約束します。
ちょうどエンゲルマン家から悪いニュースを受け取りました。皆さんは二、三日前にはとても元気でした。教授はお父さまがしばらくの間は、回復可能ではないかと考えておりましたが、突然悪化し、昨日はご老体が夜までもたないのではと心配しておられました。女の人たちは何も知りません。この瀕死の病人は気休めの希望で望みをつないでいるところです。わたしはこれから出かけ、変化があり次第お知らせします。
さようなら。わたしたちのことをいつまでも心にかけてください。わたし(病的なお喋りの)が返事を出さなくて、あなたが怒っているところをみると、わたしたちが戻ってからすぐに送った、手紙と写真はあなたには届かなかったと推察いたします。わたしたちの大いなる喜びでありましたピアノ曲集には再度お礼申し上げます。わたしたちのことを憶えてくださっていたファーベル夫妻にはよろしくお伝えください。
エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
あなたの写真は市場で、一つ一ポンドで売られているのと同じ出来映えですよ。これを渡してくれた女の子が無邪気にそこに書いてあるのは諷刺ですかと聞いていました。
同人より
注
(1)ノート用紙には「延期は断念にあらず(Verschoben ist nicht aufgehoben)」という格言がある。
52.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン 、1878年12月15日]
あなたは何事も重大に考えすぎです。ヘルツォーゲンベルクがもし領事と後に引けない約束をしていないのであれば、私が言いたいことは、ヨアヒムはぜひともこのコンチェルトを演奏したがっていますから、いずれはうまく行くということです。同じ夜にあの交響曲(1)を演奏するのには反対です。オーケストラが実際疲れるからです。コンチェルト(2)はやってみなければ、難度が判明しないものです。28日までにベルリンに行って、ピアノで彼とリハーサルをするつもりです。コンチェルトがニ長調であることもプログラムの選曲の上で考えなければいけないことです。たしかに私は写真を受け取りました。私は恩知らずの下司です。
J.Brより
注
(1)書簡50の注。
(2)バイオリンのためのコンチェルト 。これにヨアヒムが運指記号と運弓記号を付けている。ブラームスは、ヨアヒムのウィーンのコンサートに「彼の指をささげる」ことが最初の衝動であったと述べながら、秋には書き上げながら、バイオリン・コンチェルトをそのまま持っていた。ブラームスのコンサートでの演奏を嫌う傾向は根深いものであった。彼は次第に一聴衆として自分一人で演奏するのに慣れてきていたのである。それでもブラームスは、「何もしないで立っている」だけで、ヨアヒムがオーストリアで演奏するというのは考えたくもなかった。したがって、バイオリン・コンチェルトを指揮するしかなかった。ソロのパート付きの総譜を彼に送りつけて親切といえるであろうか。中間楽章は(もちろん最上であったが)破棄されていており、「弱々しいアダーヂオ」を挿入し始めていた。「ライプツィッヒの人たちにこの喜びをとっておくのが良いのかもしれない」と彼は言った。「ここではピアノに相談することにしよう。」相談の結果は大変良好であり、新作はライプツィッヒの新年演奏会のプログラムに入れることが可能になった。ブラームスは12月18日にベルリンに行き、そこからヨアヒムと一緒にライプツィッヒにやってきたのである。
53.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年12月23日
親愛なる友人へ
私はまさにリンブルガーとの話の結果をお知らせしようと思い腰を下ろしたところへ、あなたの葉書が着き、驚きましたが、同時に嬉しく存じました。私は直ちにリンブルガーに手紙を出しましたが、今まで返事をもらっておりません。彼は翌日の午後、委員会でプログラムの決定をしなければなりません。幸いなことに、彼はすでにヨアヒムに電報を打って、1月1日は彼を確保しました。私たちはこれまで、この日程で総じてうまくやってきました。
私の感想ですが、あなたのベルリン行きが遅すぎませんか。リハーサル、少なくとも最後のリハーサルはコンサートの直前になります。クリスマスの後、27日にすぐに直行されてはいかがですか。決定した日時を知りたいので通知してください。第一バイオリンの譜が5部と、第一バイオリンの譜が5部、ビオラの譜が3部、ベースの譜が8部(チェロ5部、ダブルベース3部を別々に写譜したら)要りますでしょう。トランクを私たちに預けてください。あなたはたぶん近くに、私たちの空いている部屋にでも置いておきたいでしょうから。
私は調であれこれ悩まないようにします。私の知っているのは、コンチェルトは嬰ト単調だろうということです。しかし、リンブルガーにはご自身で手紙を書いてください。あなたからかならず手紙が来ると約束してはいませんが、私はそうされるもと了解させていただきます。 私たち二人から心からの挨拶を。
誠実なるあなたのヘルツォーゲンベルクより
(エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクから追伸)
12月22日
エンゲルマン氏は今朝3時に安らかに死去されました。まるで眠りにつくようでした。
あの方も人生には執着しておられましたのに。
わたしは午後にはそちらに出かけます。この苦しみの中にいる女の人たちがお気の毒で、会うのが恐ろしいのです。ユトレヒトのエンゲルマンがそこにいるのが救いです。あなたの誠実な友よりの挨拶を送ります。
エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
54.ブラームスからハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ベルリン、1878年12月29日]
親愛なる友へ
私は明日月曜日2時にトランクを送る予定です。ライプツィッヒ到着はおおよそ、5時30分、5時15分、5時7分半か5時20分です。正しい街に送られたことを確認したいです。ですからあなたの手元近くに置いてくださいますよう。では失礼します。
J.Brより
ライプツィッヒ、1878年1月16日
親愛なる友ブラームスへ
ごぶさたしております。ここにわたしが手に入れた新聞批評があります。でもあなたはそんなのを気にはされないでしょう。まず――の記事ですけど、あなたの最近の作品にはインスピレーションに欠けると断言しています。これらのことにはすべて慣れて、フラウ・パスターが言われるところの「動じない態度」を身につけておられるにちがいありません。今度お手紙を頂けるときには(ウィーンにお帰りなってから(1)と思っています)、「あなたが批判に超然としておられる理由とその程度」をお聞かせください。この記事が広く配布されているので気になります。わたしは飽きることなく、あなたの良い評判を支持し続けています。いつもあなたが世界中で一番礼儀をわきまえており、社交的で洗練された人物であり、あなたがウィーンのフラッパルト(2)から立ち居振る舞いのレッスンを受けておられることも皆さんに言ってきました。あなたの優雅なお辞儀の仕方が分からないのはよっぽど無知な人です。
今日はなにも考えられません。ただ哀れな二人のヘルツォーゲンベルクをのこして、われらの巨匠にしてわれらの子(notre maitre, notre enfant)が11日に発たれたことを除いては何事も起きていません。楽しい訪問者にはこわいぐらい簡単に慣れてしまうのですね。わたくしたちにあなたが下さった11日間の美しき日々を感謝します。ご親切にもあなたはお時間をわたしたちに与えてくださいました。ベートーベン・テーブル(3)で夜のひとときを割いてくださるたびに、本当に感銘を受けました。
あなたはとうとうお酒のビンを忘れて行かれました。それを見つけたときのわたしの気持ちは、幼い甥の気持ちと同じでした。何年か前、マチルデ・ハルテンタールは甥が彼女にあげたクルミ割りを持たずに行ってしまいました。「可哀想!あの人どうするのだろうね」としみじみと言っていました。
あなたがナイトガウンを忘れて行かれたのはもっと重大です。洗濯に出して、雪のように白くしてユトレヒトに送ります。ここライプツィッヒではまったく同じ毎日です。ニ長調のデュエット(4)をテノールのW――と練習していますが、うまくやるのは大変苦痛です。W――は最後の B♭-E-A-D がうまく歌えなくて二重唱が困難です。
では、さようなら、さようなら。「饒舌なるもの、汝の名は女なり!」などとは言わないでください。
わたしはあなたがハ短調(5)をたっぷり堪能されることを期待いたします。もっともわたしたちの半分も楽しんでおられるのか、疑問ではありますけど。そちらに行かれないわたくしたちには同情してくださいね。おりにふれ、わたしたちのことを想い出してください。
あなたのもっとも信頼できる崇拝者リーズルとハインリッヒ H.より
注
(1)ブラームスはライプツィッヒから1月22日にはブレーメン、2月4日にはアムステルダム、2月6日にはハーグで新作の交響曲を指揮した。
(2)ルイ・フラッパール(Louis Frappart)、ウィーン・オペラ劇場の主席ダンサー。
(3)あるレストランの席。
(4)作品75の第3曲
(5)ハンブルクとユトレヒトのハ短調交響曲
25.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ハンブルク、1878年1月 18日]
親愛なる友へ
この手紙は意図と目的において、外形はともかく葉書にすぎません。短い急ぎの走り書きであり、お宅で過ごした楽しい日々をいささかもほのめかすものではありません。
さて、毎日思うことですが、ここであなた方をお迎えする予定がないのはまことに結構なことです。ハンブルクだけですが、年間360日じつにいやな天気(残りの5日に当たるのは困難の極み)です。外に出ようとか窓から外を眺めたいという気持ちになるのは一日のうち一時間とありません。
でもハ短調の指揮は楽しいとおもわれます。オーケストラは非常に熱心で今晩を楽しみにしています。明日はブレーメン(カール・ラインターレル(1))に、水曜日にはユトレヒト(T.W.エンゲルマン)に行きます。2月4日にはアムステルダムでニ長調を指揮する約束をしました。ユトレヒトの宛先で手紙も届きます。
手紙の意図がばれましたね。例の交響曲のパーツをアムステルダムの宛先は、J.A.ジレム、ヘーレングラハト、478です。
ジムロックの代理業者をご存じだと思いますが、例の荷物を彼に渡してさえいただければ結構です。もう一つの荷物はまじめな話、デュエットと呼んで頂いて結構ですが、ユトレヒトに送るために彼に手渡してください。
到着した最初の日にビュルナー(2)に手紙を書きましたが、プログラムには、ニ長調交響曲、ベートーベンの合唱付き幻想曲、そして「魔の炎」(3)が入っていると知ったときの可哀想なわれらの友人の拷問の苦痛(4)を想像してみてください。私はもちろん手紙を出して彼女に来るように説得しますが、すべてが滑稽で、真剣に考える気もしません。彼女が引き受ける気になるとは考えられません。
安心してお休みください。あなた方がどれだけお手紙を下さろうとも、どれほど親切であろうとも、私は借金とみなし、利子をつけてお返しします。あなたの兄弟姉妹の皆様に、それからベルンシュトルフ(5)にもよろしくお伝えください。
いつまでもあなたのJ.Br.より
注
(1)カール・ラインターレル(Karl Reinthaler, 1822-1896)、ブレーメンの作曲家で指揮者。ブラームスの熱狂的崇拝者。
(2)フランツ・ビュルナー(Franz Wüllner, 1832-1902)ミュンヘンとドレスデンの指揮者。
(3)フラウ・シューマンのワーグナーに対する反感は非常に強く、ブラームスは「魔の炎」と同じプログラムでは演奏しないのではないかと心配した。
(4)フラウ・シューマンはドレスデンのブラームスの交響曲と同じコンサートでベートーベンの「合唱幻想曲」を演奏することになっていた。
(5)エードアルト・ベルンシュトルフ(Eduard Bernstorff, 1825-1901)、音楽紙 Die Signale für musikalische Welt の反ブラームス派の評論家。
26.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年1月19日
待望のお手紙ただいま受け取りました。朝食にすてきな香りを添えてくださいました。わたしたちはあなたが手紙でおっしゃっていることと、おっしゃりたいことすべてに喜んでいます。でもあなたはビュルナーにそのプログラムを変更させるべきです。「一匹の野うさぎを殺すには猟犬がたくさん要る。」(1)けれどもフラウ・シューマンの場合には「魔の炎」 一曲で十分でしょう。彼女が演奏するなんて信じられません。選曲に品位がありません。真に芸術的な作品と「魔の炎」を同じ夜にどうやって鑑賞させようというのでしょう。まあー、ビュルナー、ビュルナー、私はあなたのことを紳士だと思っていたのに。このプログラムを組むようでは、興行師ではりませんか。絢爛たる「炎の曲」で満場は興奮するでしょう、その夜の栄冠はワーグナーに授けられるでしょう。「おおなんと遙かなる」(2)その他は穏やかなニ長調で、美の光を放ち、心に安らぎの香油を注ぐものですし、「幻想曲」は選ばれし者のために書かれた曲です。これらの前に「魔の炎」を持ってくるなんて。どうしてビュルナーはこう辛抱ができないのでしょう。どうしてワーグナーの魔術をわたしたちの劇場に入り込ませる必要があるのでしょうか。しかるべき場所でもないし、唯一の場所でもないでしょう。
火は主人に見守られて力を発揮する(3)とはいいますが、ニ長調に持ってくるなんて。まあ本当に、本当に。フラウ・シューマンは演奏を拒否して当然ですし、あなたはビュルナーにいって、プログラムを変えさせるべきです。あなたのだいじな、だいじな交響曲のためにも中立的態度を捨てるべきですし、同じ夜に、わたしたちの高尚な本性と低俗な本性に同時にうったえるのは非芸術的であることを悟らすべきです。ラファエルとマカールトの絵が並んでいる展覧会があったら、ビュルナーは何というでしょうか。本当に腹が立ったものですから、何度も同じことを繰り返してしまいました。あなたが少しは憤慨して不機嫌になってビュルナー殿宛の手紙だけではなく、フランツ君宛の手紙を出してくださっていましたらよかったのです。
ハインリッヒはあなたの楽譜を送る準備をしていますが、彼の感激も一緒に詰め込んでいます。ところで、わたしたちの親愛なるフラウ・フォン・Bはまたしても私のお人形を取り上げ(4)、誕生日のお祝いと一緒にユトレヒトのフラウ・エンマに送ってしまいました。お荷物はあなた宛になっています。あなたが適当な洒落を言ってフラウ・エンゲルマンに渡したら楽しいでしょうから。大事なお方にはよろしくお伝えください。彼女はいろんなことができます。白い小さな手で上手に弾くことができますし、鳥のように笑い、だれもが彼女の虜になります。そして子供たちをこの世につれてくるのです。これこそ女のできる最上・最高の仕事ですものね。私の心底からの、惜しみない尊敬の念を彼女に伝えてください。
* * * * *
アムステルダムでニ長調を演奏されるというのは大変な朗報です。お父さまのユリウス(5)もそれを聞かれて、喜ばれることと思います。
さようなら。またすぐにお葉書を送ってくださいね。ビュルナーさんを説得してください。
ぜひそうして、私の尊敬を受けてください。いやとおっしゃるなら、私は苦しむことになります。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
注
(1)ドイツの格言。
(2)デュエット。「修道女(Kloisterfräulein)、作品61第2曲」の最初の行。
(3)シラーの「鐘の歌(Das Lied der Glocke)」からの引用。
(4)おそらくライプツィッヒの見本市の人形。
(5)ユリウス・レントゲン。
27.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年1月31日
あなたのエードゥアルト(1)(Eduard ) がまたわたしのもとに戻ってきました。私はもうなりふり構わず、彼と絶望的な恋に落ちました。この作品がどんなに豪華かあなたには分かっておられないみたいですね。どうか、7ページ、第二小節の伴奏部のコードを直してください。変へ音ではなく、前と同じようにへ音であるべきです。
あなたのご注文ではありますが、私は新聞の批評を同封しておりません。くだらない内容に嫌悪感をもよおしたからです。そんなのにほんのわずかの時間でも割くのは残念なことです。私はウィーン宛で、楽譜と一緒にその貴重なゴミを詰め込むことにしました。ウィーンなら、ゴミ箱があるでしょうから、そこに放り込めば多少は慰めになるでしょう。エードゥアルトはエンマとの面会に間に合うと思います。どうかその美しさをすべて説明してあげてください。エードゥアルトが答えるところの伴奏部のおもしろい変化について教えてあげてください。「鷹(Geier)」の歌詞のところで、伴奏は控えめで、右手のパートは単純で単調ですが、「赤毛(Rotross)」に来たところでの変化です。ここでサブドミナントが導入され、テノールの変ニ音が(以前は9度でした)全く新しい効果を生みます。それから、変ト音に上昇し、再び下降する右手の精妙な小節。最初と同じメロディーとは信じられないでしょう。
それから、母親の問いかけの所で、ピッチを3度、徐々に上げて変ロ単調の素晴らしいクライマックスになることで、この傑作を記述する言葉のやり取りが同じでありながら、まったく違ったものになっています。そしてなんと自然で、無駄がなく、正しいのでしょう。まるでエードゥアルトと母親の興奮した声が最初からその調子であったように、音楽を離れては最初から存在しなかったかのようです。この詩が長く顧みられなかったのはなんということでしょう。ついにある人が通りかかり、心に深く刻み、とうとうへ短調で再びこの世に生を授けわが子にするまでは。
でもこの曲はわたしたちのものでもあります。楽しむ権利はありますものね。その点についてご異議ありますか。
それではさようなら。いやな女と思われたくはありませんが、ドレスデンにはもうお手紙しましたか。私はヘッベル調(2)であなたに要望するものです。
エリーザベト・H.より
注
(1)エドワード(Edward)。「アルトとテノールとピアノのためのバラード」、作品75第1曲。
(2)フリードリッヒ・ヘッベル(Friedrich Hebbel,1813-1863)、ドイツの悲劇作家。
28.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
アムステルダム、1878年2月3日
親愛なる友へ
この際、取り急いでこの短い手紙を書くのは不適切であることを重々承知しております。あなたの一部賞嘆すべき、全体としては心優しく、魅力あふれるお手紙に感謝の意を表するために何かできればと考えております。
賞嘆すべきは「魔の炎」論文です。
私はフラウ・シューマンを慰めの手紙を書き、説得を試みました。しかし、われらの友はあの化け物を全然怖がってはいませんでした。彼女はさりげなく聞くつもりはありませんと返事してきました。
ビュルナーには書いてはいません。私のポケットは回答のない手紙でいっぱいです。私はあなたの論文を送ってみたい気もしています。しかしこの問題は成り行きに任せていかがでしょう。フラウ・シューマンの気が変わらなければ、私はドレスデンに行きますし、あなたも来られることを希望します。 オランダは実に魅力的です。第二番(1)は音楽家にも大衆にも受け入れられ、私の滞在はまずまずです。4日と8日にアムステルダムで、6日にはハーグで公演されます。さらに第一が5日アムステルダムで、いってみれば大衆コンサートですが、公演される予定です。 しかし、あなたは私がエドワード(Edward) (すみませんが、エードゥアルトではありません)を早く返してほしいと考えておられるのですか(2)。私の意志疎通能力の欠如を誇張しておられます。この曲についてあなたのありがたいお言葉を読んで非常に困惑して、独り言を言いました。「なぜあなたはもっと問題にしないのか。もっと良くなるはずだ。」私が間違っているかもしれませんが、興味ある評判ではあります。 私は9 日に発ちます。ほかに送られるものはありませんか。ところで私は、「より重要な」記事のことで払われた面倒にまだ感謝しておりませんでした。しかし、手紙が入っているのが最良の小包です。より大きな感謝に値します。今日の所は、ご主人や皆さんによろしくとだけ申し上げることにします。
いつもあなたの誠実なJ.ブラームス
私が Edward を Eduard と、Symphonie を Sinfonie と綴るとは、私も哀れですね。
注
(1)ニ長調交響曲
(2)つまり出版を急いではいなかった。でも、この年の秋には出版されたのである。
29.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年2月5日
親愛なるブラームスへ
どうかわたしの拙い手紙を笑わないでください。こわくてうっかり手紙を書けなくなります。それはとっても辛いことです。でもその代わりにあなたのアムステルダムからの前便のように得るものがありました。わたしたちは最初のお手紙の返事でユリウス・レントゲンのお話をうかがえるものとばかり思いこんでいました。あなたのお手紙を受けとったときのわたしたちの無念と驚きを想像してみてください。わたしたちはエンゲルマン夫妻から、あなたがオランダで大層もてはやされていることを知りました。オーケストラやコーラスの人々や指導者達が、あなたに桂冠を捧げるのに先を争っているとのこと。オランダ人は決して、普通に思われているほど冷たくはないのが明らかになりましたね。中期ドイツ語に生気が乏しい理由を調べて、何らかの民族学的解答を発見するのも興味深いですね。しかし、わたしはこの古傷に触るつもりはありません。まずあなたに感謝しなくては。あなたは、勝利に次ぐ勝利の興奮の最中、貴重な時間を割いて急ぎのお手紙をこの静かなフンボルト・シュトラーセに送ってくださいました。でもわたしたちがどんなに喜ぶかをご存じだったのでしょう。
天の助けで、Edwardを間違わずに書くことができ、あなたにまた笑われずにすみました。Brahms と書かずに、Brahmst (1)と書いたらよかった。
* * * * *
わたしはあなたが気配りのきく人だとは思ってはいません。あなたが気配りのきく人でありながら、あなたの箱から次々にデュエットを持ち出していったとしたら、あの夜のことはあまりいい思い出ではありません。でも、あなたはこのデュエットを返してくれと言われました。
昨日、あなたは慈悲深い行いの数々をなさいました。あなたは病める者を立たせ、失意に沈む者を癒し、飢える者に食を、渇ける者に飲み物を授けました。わたしたちは気の毒なホルシュタイン(2)を見舞いに出かけ、あなたもご存じのように模範的な二重奏でニ短調(3)を演奏して上げました。彼はソファに横になり、目を輝かせ、楽譜を抱きしめ、おなじみの音を吸い込んでいました。彼が記憶を新たにしたのはこれが初めてでした。親愛なるブラームス、あなたは数多くのことができます。病める仲間の心を喜ばせ、魔法で、彼の頬を色づかせ、目に輝きを呼び戻したのは一例にすぎません。
あなたには天からの挨拶が。そしてユリウス・レントゲンにはわたしたちの挨拶をお伝えください。可哀想に、彼の両親との別れはなんと酷いことでしょう。
さようなら、さようなら。多くの方を幸せにしてください。そしてあなたも幸せでありますように。
おりにふれ、わたしたちことを思い出してください。
あなたのヘルツォーゲンベルク夫妻より
キルヒナー(4)は変ホ調の変奏曲を彼自身が編曲して演奏してくれました。とても素晴らしいものでした。熱烈な崇拝者にして始めてできることです。
注
(1)ブラームスの名前はホルシュタインの彼の関係者の間ではtを付けて書かれており、彼の父はハンブルクではこう呼ばれていた。ブラームスはこれが大嫌いであった。
(2)フランツ・フォン・ホルシュタイン(1826-1878)オペラ作曲家。彼はこの時死の床にあった。
(3)第一交響曲。
(4)テオドール・キルヒナー(Theodor Kirchner, 1823-1903)、作曲家でピアニスト。彼はブラームスの作品をいくつか編曲した。この変奏曲は(作品23)は二重奏であったが、彼はピアノ・ソロに編曲したのである。
30.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年2月19日
親愛なるヘル・ブラームス
たとえ一行でもいいからお手紙が頂けたらと思います。ニ長調のためにドレスデンに行かれる決心をなさったかどうかだけでも知らせてください。わたしたちもぜひ行きたいですから、運さえ良ければ、うまく都合をつけます。ユリウス・レントゲンがあなたはウィーンにとどまって仕事をするつもりだといったものですから、わたしたちは慌てました。あなたは、いろんな試練にあっているフラウ・シューマンをさらに失望させないでください。気の毒な「魔の炎」の犠牲者!ユリウス・レントゲンはアムステルダムで夢中になった人たち話をしてくれました。ここでだれかがそうなれば。生きているうちにそれを見届けることはできないでしょうけど。
* * * * *
ルビンシュタイン(1)は、彼の道連れにはふさわしくありませんが、___(2)と一緒に、ライプツィヒの新聞記事をいれて明日送ります。このお手紙はそのパスポートです。ハインリッヒは可哀想にひどい咳をして、寝込んでいます。悪いことに、土曜日のコンサート(3)までにリハーサルを仕上げなくてはなりません。でも、「もう夜ですから、われらとともにとどまりください」(4)は天国的な曲ですから、ハインツを回復させてくれることと思います。
今日はさようなら。ファーベル夫妻にはどうぞよろしく。
それから、あなたのペンを錆びつかせないでください。ところで、どう返事を書いていいか困っていらっしゃるときは、歌詞はあってもなくても構いませんが、ソルフェージを書いて送ってくれませんか。手の込んだ声楽曲が本当に少ないのです(5)。わたしは今バッハのオルガン・ソナタを歌っています。これは大変楽しいのですが、声楽のために念入りに書かれたものがあればすてきだと思います。言葉ごとにすくなくともに八つの八分音符があれば。それは素晴らしいですわ。一方ユリウス・レントゲンは、あなたのペンによる、手を固定させたままの指の練習曲を待ち望んでいます。アムステルダムではほんの小さな女の子たちもブラームスを演奏したがっているとか。この笛吹き男。
わたしの哀れな主人からもよろしくとのことです。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)おそらくアントン・ルビンシュタイン(Anton Rubinstein)のピアノの新曲。
(2)ライプツィッヒの某作曲家の作品。
(3)ヘルツォーゲンベルク指揮、夫人の伴奏と歌によるバッハ・フェライン演奏会。
(4)バッハのイースター・カンタータ。
(5)ブラームスはこの要望には応えていない。彼女の不満に根拠がないと考えたものと思われる。彼はイタリアの昔のソルフェージュ作曲家をよく知っていた。
31.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1878年3月1日
親愛なる友へ
ご存じのように、フンボルト・シュトラーセのわたしたちは、あなたの工房から出るものならどんなものでも、歓声を上げて喜んでおります。さらにわたしたちを喜ばせたのはこのゾクゾクする魔女のデュエット(1)です。これは絶え間なくあふれ出る霊感です。このすてきな、古びた写本用の紙(2)もこの曲に合っています。歌詞(3)は血も凍るようですが、この歌詞を先日貸して上げた進歩的な教授には腹が立ちました。彼にはまったく荒唐無稽の印象を与えたようです。彼はグリムのおとぎ話で育ってはいなかったのです。わたしは嬉しくて申し上げますが、母親が煙突から逃げたことを知ってはいましたけど、これを歌うたびに背中を身震いが通り過ぎていきます。わたしはこの曲をレントゲン家の末娘と練習するつもりです。彼女の無邪気で子供らしいソプラノが魔女の娘にぴったりです。わたしは魔女とわかるようにしています。それにしてもなんと楽しいのでしょう。筋書きは最初から分かっていますから、伴奏の低音部が「娘や。今日は五月一日だよ(’S ist heute der erste Mai, liebes Kind! )」の声を強調し、さらに怖がる娘のモティーフが母親の返歌の伴奏部に導入されます(身震いしたい人ならかならず聴き入ります)。これでこの部分は二重奏のようになり、まるで娘の声が聞こえるかのようです。もちろん返歌は、期待通り、問いかけの転回です。そして最後のクライマックスにいたるまで効果があり、エドワード の親子とそっくりです。こんなことはすべてあなたの方がよっぽどご存じのことですから、おしゃべりするのは愚かですね。わたしのペンがこんなに走ってしまったことを恥ずかしく思いますが、あなたは辛抱強い方ですものね。
「村にも魔女はいるの?(Ob im Dorf wohl Hexen sind? )」の Ob をヘル・キプケ(4)に敬意を表して、わたしはニ音の強い拍子で歌いたいのですが、構いませんか。それがとてもうまく合います。エンゲルマンのお父様(5)が今日こちらに見え、誇らしげにお孫さんたちへのあなたの賛辞(6)を読み上げました。あなたが生まれたばかりの子を見もしなかったといって、お祖母様が憤慨していたのが滑稽ですね。
わたしたちのバッハ・コンサートは一週間前に開かれました。オルガン奏者が当日に病気になりましたが、成功裏に終えることができました。 アマンダ・メイアというスウェーデンの綺麗な女の子が助けに来てくれ、見事に責任を果たしてくれました。女もそう軽蔑したものではないでしょう。
ではさようなら。さらにもう一度あなたに感謝いたします。あなたが感動してわたしにご褒美をあげたいと思われたときにはぜひ送ってください。魔女役をすぐに他の人に譲れ、ですって。(変ニ音の恐怖の動機)それにしても、あなたはドレスデンに行かれる予定ですか。フラウ・シューマンと「魔の炎」も? 「娘や。今日は五月一日だよ。」でもわたしたちは暗闇の中です。
ヘル・ジムロック(7)は今日不安そうにあなたの動きを訊いていました。でもあなたは気の毒な「トッゲンブルグ」のアストール(8)にはこのデュエットを聴かす気でしょう。
「行い良ければ、天使はみな平等になり、最後には天国にいけるよ。」
“Guttätigkeit macht Engeln gleich und führt zuletzt ins Himmelreich.“
ではまたドレスデンでアウフヴィーダーゼーン。
感謝するあなたのE.H.より
注
(1)「ワルプギスの夜(Walpurgisnacht)」。二人のソプラノのためのデュエット、作品75の第4曲。
(2)ブラームスは古紙として買った古い写本用の紙が大好きだった。
(3)ウィリボード・アレクシス(Willibald Alexis)の歌詞
(4)カール・キプケ(Karl Kipke)、音楽評論家。ブラームスの誤った朗唱を非難した。
(5)T.W.エンゲルマンの父。
(6)ブラームスのユトレヒトの家族宛のお祝いの手紙。
(7)ブラームスの出版者。
(8)リーター・ビーダーマン社の社長。
32.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
フンボルト・シュトラーセ[ライプツィッヒ]、1878年3月10日
親愛なるわが友へ
ドレスデン(1)でのあの日々を振り返るとき、わたしはこの喜びを否定する気は毛頭ございません。大好きなニ長調は寝てもさめてもわたしたちの脳裏を去りません。こんなめったにない幸せを感謝する言葉もないほどです。わたしはしかし、今回お手紙を差し上げるのはほかの理由からです。わたしはあなたに抗議したいのです。わたしたちは、真剣であれ、冗談であれ、たまたま飛び出す言葉を許しあう、共通の足場の上に立っていると考えます。あなたの周囲でもっとも忍耐強くお香をたいている者の一人からの意見を辛抱して聞いてください。この前提から始めたいと思います。
あなたはシラー・シュトラーセで最初は、優しくて親切でした。窓際の席でのお話も(お酒を全部こぼした後で)、わたしの兄のささいな矛盾を説得的な論理で直したのもとっても楽しかったと思います。それからいやな男の名前が出てきました。そして、あなたは確か、その男がハインリッヒの四重奏(2)を誉めておきながら、その年の冬には、あなたの変ロ調(3)を軽蔑し否定した、あの古い話にふれました。これは独りよがりの皮肉から出たことで、誰かが言ったようにあなたはいつも自分のことをあざけります。でもあなたが話しかけていたのは、公正な第三者ではなくて、この批評家の無知を真っ先に笑うことをあなたが充分ご存じの人物です。イギリスを活動の拠点にするなどという、自分から取り下げるべき考えをもった臆病者に対してではありません。自分自身をあなたの靴の紐をほどくにも値しないと卑下し、真理の追求者であり、謙虚な弟子に対してです。この人にとって、過大な評価は得られるものが皆無であるために、こっぴどい批評よりも千倍も苦痛なのです。こんなことに無頓着である、あなたの雅量のなさ(あえてそう言わせていただきます)は非難されるべきです。ハインリッヒのためというよりあなたのせいでわたしは傷つきます。あなたが彼を理解していないのが悲しいのです。この抗議を去年試みるつもりでしたが、ヘックマン(4)がたまたま居合わせたので、その機会を失いました。またそのときには冷ややかな洒落で押さえ込まれるのではと懸念しました。でも今はもう怖くはありません。率直に申し上げますが、これは親切心からでも正義感からでもありませんし、まったくあなたらしくありません。あなたに適合しない血の一滴のせいであることをわたしは望むものです。出血多量で死なないようとりわけ細い静脈を切ってその血を出しては如何でしょう。
わたしをもっとも傷つけたのは、あなたがさも気の毒そうに「可哀想に、可哀想に」と言ったことです。自分の言葉はある程度考えて使わなければ。でも、あなたが誤解し傷つけている人物は、あなたに人生を賭け、プードルか子供のように、またカトリック教徒が守護聖人を愛するようにあなたを愛しているのです。この場合には、たとえ愛情を上手に表現する才に恵まれていなくても、話は違ってきませんか。この場合に一番傷つくのはわたしです。申し上げておきますが、彼はこの大それたお説教のことを何も知りませんし、心安らかに床につきました。日の出とともに万事正常であることは間違いありません。彼の妻は怒りっぽい質ではありませんが、どうしても怒りをあなたにぶつけるのを押さえきれません。これもあなたが招いたことです。わたしは怒りと同時に悲しくなります。わたしが無条件の誠意と限りない尊敬を与え続けている人に対する不満に耐える以上の苦痛はありません。
あなたがこんな時にご自身が残酷であるとは思ってもいないでしょう。あなたの背中に、こんなことを言わせたり、他人を致命的に傷つけさせたりすることのできる「黒犬」の一種が(おかげさまで身近には知りませんが)いるからです。致命的であることが分かったら、あなたはそれを捨てるでしょう。あなたは心の底では親切な方で、真の愛情に対して意識的に軽蔑を投げ返すはずはないからです。
あなたの庭からこの毒草を取り除いてください。そしてこの際のない手紙のせいでわたしを憎まないでください。女というものは簡潔ではありえませんものね。
わたしがあなたから短いお手紙をうけとるまでは(そうしたら一年で許して上げます)、わたしの「心の苦しみ」(5)をあなたのコラール前奏曲で癒します。これは諳んじていて、暗がりでも一人で演奏できます。深甚なる尊敬をヨハネス・ブラームス様に。心からの握手を。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク(6)より
注
(1)ニ長調交響曲は3月6日の灰の水曜日にドレスデンの王立オペラ劇場で宮廷楽団により演奏された。
(2)リーター・ビーダーマンから出版され、ブラームスに献呈された作品42の3曲中の1曲。
(3)変ロ調の四重奏曲、作品67 。
(4)ロベルト・ヘックマン(Robert Beckmann,1848-1891)、バイオリニストで弦楽四重奏団のリーダー。
(5)オルガン曲、「おお悲しみよ。おお心の痛みよ」の主題によるコラール前奏曲とフーガ。Musikalisches Wochenblatt の付録として発表された。
(6)ブラームスの返事は無くなっている。次の手紙からはブラームスが返事を書き、フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクをなだめるのに成功したことは明らかである。
33.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年3月13日
* * * * *
…ではこれからは、編集記号にはあまり注目しないことにします。でも少し直した方が良いと思います…「心の苦しみ」の前奏曲大変ありがとうございます。わたしたちはこの曲が大好きですので、ほんの一部でもあなたの自筆による曲を頂けるのは格別嬉しいのです。わたしはこれを持って大声でキルヒナーに知らせにいき、彼を興奮させてしまいました。たまたまアストールが来ていました。あらゆるものがこの小品に表現されているのに驚きました。あなたはたとえ持ち合わせが乏しい時でも、ただ腰を下ろしてこの曲を楽しむという贅沢ができるのですね。この曲のあらゆる技法はただ情念を高めるために駆使されています。
ドレスデンの批評界の大御所H__氏は、ニ長調の第一楽章の提示部がなぜ繰り返されるのか理解に苦しんでいます。彼はまた、あなたがこれまでいい仕事をしてきた室内楽になぜ限定しないのか、そしてそのついでに、すべての流れが不可避的に注ぎ込まれる、主流である楽劇をなぜ試そうとしないのかと、詮索しています。アダージオのテーマが少し対位法的であることに気付いておられませんか。ドレスデンの人たちはあなたの魅力的な正体に気付いてきたようです。大成功であったことは認めています。わたしは、あのお馬鹿さんたちがあなたを罵倒すれば良かったのにと思います。リーゼ(1)の歌が洗練され真摯であり、ベートーベンの精神に則っているというのですよ。いずれにしても、公演というものはこわいですね。誰がそんなことを言っているのか知りたいものです。――さようなら、ご親切な方。本当に直してみてください。その価値はあります。
エリーザベト・H.より
本当にあなたが削除したあの下の部分が分からないのが残念です。
注
(1)ドレスデン・オペラ劇場のテノール歌手。彼はブラームスの交響曲が演奏されたコンサートでベートーベンの「遥かなる恋人によせて(An die ferne Geliebte)」を歌った。
34.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1878年3月]
親愛なる友へ
ここに手紙を書く気になるまではしまっておきたかったノッテボーム(1)文書があります。
… 私は四重奏曲(2)に感謝します。
一瞥しただけですが、良い印象を持ちました。今夜はこれで楽しく過ごすことになりますが、待ち遠しくなりました。 では取り急ぎ失礼します。
誠実なるあなたのJ.Br.より
注
(1)書簡3の注記。
(2)書簡32の四重奏団。
35.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1878年4月3日]
ナポリのポステ・レスタンテ宛の手紙は4月14日から20日(1)までは下記署名者に届きますことを、尊敬する後援者の皆様にご通知申し上げるものであります。20日以降はローマに。彼はビルロート(2)とともに旅行し、手紙を書くこと、足を切断すること、その他あらゆるご注文に応じる所存であります。ご注文は彼と仲間によって細心の注意を払って実行されます。それ以上の計画はございません。おそらく5月の中旬にはウィーンに戻ってまいります。 では失礼します。
J.Br.
注
(1)ブラームスはビルロートとゴルトマルクとともに4月8日に最初のイタリア旅行に出た。ゴルトマルクはローマに残り、「シバの女王(Die Königin der Saba)」の最終リハーサルを監督した。一方、二人はナポリに向かったが、ビルロートはブラームスがイタリアの充分な印象が得られるよう配慮した。「私はローマを見たのでまあ満足です」とブラームスはエルネスト・フランク(Ernest Franck)に書き送っている。「帰る途中で見ます。その他すべては散漫なものです。」帰途彼はペルチャッハでしばらく逗留し、ウィーンの友人のクーペルウィーザー博士とフランツ博士と出会った。「最初は非常に快適なのでもう1日泊まらねばと思いました」とアルトゥール・ファーベルに書いている。「しかし二日目が非常に快適であったので当分腰を据えることにしました。」
(2)テオドール・ビルロート(Theodor Billroth, 1829-1894)は高名なウィーンの外科医で、熱烈な音楽愛好家であり、1866年にチューリヒで出会って以来ブラームスの親友であった。
36.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年4月9日
親愛なる友へ
イタリアに発たれるもうすこし前に知らせてくださればと思います。あなたがアドルフ・スタール(1)やその美学の追従者の目ではなく、ご自身の目で約束の地をご覧になられることを期待いたします。いずれ自分の目で鑑賞したくなるだけですから、受け売りの印象は無意味です。あなたが楽しみを求めて出かける観光客とは思いません。あなたの役目は人に楽しみを提供することですから。今あなたは急に、受け身の役を捨て積極的な役を取ろうとされました。この旅はなんと新鮮なのでしょう。それにあなたは、稀にみる非凡な感覚をこれまでに蓄えられてこられました。あなたはきっと貪欲にすべての美を吸収されることでしょう。
わたしたちはイタリア旅行の件を昨日フラウ・シューマンから伺いました。あなたからお知らせの葉書がなくても、今日にも祝福の手紙を書かれるそうです。わたしたちはやはり、あなたが長い休養を取られるのではないかと思いました。でもあなたがペンに休養を与えたら、わたしたちは一体どうなります。
あなたと違って、わたしたちには楽しい時間は取れそうにもありません。わたしたちはわたしの年老いた叔父のお葬式でドレスデンから戻ったばかりです。
わたしがこんな紙切れに書いているのを不思議だとは思われませんか。わたしは書き物机の鍵をドレスデンに置いてきてしまったのです。仕方なく、ペンもインクも紙も、人生を生きるに値するものすべてがない状態で、鍵のかかった抽斗の前に腰掛けております。わたしの唯一の財産は兄からもらった複写セットです。これは書いたものを二重に記録してくれ、洗濯婦に、いえたとえ名士といえども、リストを書いておかなければいけないと思った場合には重宝です。あなたにこの複写の手紙が届いてなくてよかったですね。あるいは、諳んじて書いたニ短調の第一楽章を送っておくべきだったかもしれません。これはあなたが、いつかご覧になって喜ばれると思います。フラウ・シューマンはピアノ編曲になるとまでいってくださいました。でもわたしは、この愛すべき女性の言うことをそんなに真に受けてはいません。彼女はこの世で生きていくには人柄が良すぎます。たまたまあなたはこの苦しみから逃れておられます。その意味でもう一度おめでとうと申し上げます。愛すべきフラウ・シューマンはフランクフルト(2)に決められました。わたしは、幸せであるべき彼女が、ここで本当に幸せになられるように祈ります。
… それからアルトゥール(3)も一緒ですか。彼もいらっしゃるのですか。あなたは「シバの女王」の召使い(4)のことだけ書いておられるものですから。
それではわたしたちの好意をお受けください。わたしたちはあなたが楽しい時を過ごされるのを心底喜んでいます。陽光あふれるイタリアの景色がケルンテンの景色とおなじように、あなたに微笑みかけることでしょう。ですから昨年のようにメロディーをどっさりおみやげにして帰ってきてください。評論家たちもその説明の仕方が分かるようになるはずです。
さようなら。お幸せで、おりにふれお葉書を下さい。
あなたの誠実なる友エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)アドルフ・スタール、イタリアに関する著述で知られる。
(2)フラウ・シューマンは1878年ベルリンからフランクフルトに移り、1896年に死亡する数年前までホッホ博士(Dr. Hoch)の音楽院の教授であった。
(3)アルトゥール ・ファーベル。
(4)ゴルトマルク。
37.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年4月9日
親愛なる友へ
われらのホルシュタイン(1)の病状は急速に悪化しています。せいぜい二、三週間保てばよい方です。彼は絶え間ない苦しみにさいなまれております。医師は最初、胃の硬化、あとで癌と診断しました。しかし彼の精神は明晰です。周囲の人に対する心遣いを見ているのは苦痛です。彼は心の平安と勇気そのものです。私はこれほど感動的な最後を見たことはありません。遠くからであれ、近くからであれ、愛のしるしを感じたときに、この人の目が輝くのを知ったなら、あなたは彼に最後の言葉を贈りたくなるでしょう。彼はあなたに非常に忠実でした。親しい手紙を書いて頂けませんか。彼は仲間のうちで一番優れた人から哀悼の言葉を受けるべきです。
私たちはほとんど毎日見舞いに行って、数年前からその兆しがあった病気が恐るべき勢いで進行していくのを見続けました。彼の容貌は急に変化しました。昨日までは、話したがり、笑っては、いろんなことに興味を示しました。不幸な奥さん(2)は3週間前の診断の後ですっかり取り乱しました。彼の危篤が最初に確認されたそのときには、われわれが驚くほど気丈にしてみえたのに、彼の前では冷静さを失いました。今では、彼女は彼の感動的な態度ですっかり変容したみたいです。
家全体が休息するに相応しい美しい教会のようです。苦痛ははっきりと和らげられ、人の魂までつらぬく霊感のひらめきがあります。
私たちはあなたが彼のことが気がかりだと思いますので、またすぐにお知らせします。数日後には気が進まないのですが、私たちはライプツィッヒを離れます。別の所で用があるからですが、毎日知らせを受け取ることはできます。
私の妻からもあなたによろしくとのことです。
いつまでも誠実なあなたのヘルツォーゲンベルクより
注
(1)書簡29.
(2)ヘドウィク・フォン・ホルシュタイン旧姓ザロモン(Hedwig von Holstein geb. Salomon) 、彼女の素晴らしい人柄は、ヘレーネ・フォン・ヴェスケ(Helene von Vesque)の小説「幸せな女(Eine Glückliche)」で長く記憶されることになった。
38.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年5月17日
親愛なる友へ
気の毒なホルシュタインの悲しい知らせはまったく予想しないものでしたので、苦しみと同時に驚きました。私は彼にも彼女にも手紙を出しても意味がないように思います。私が同じような状態になったとしても、私は一番の親友からも見舞いの手紙を期待しません。しかし女性というものはこのような場合に、慰めを欲しがることも私は承知しております。ですから、さしあたり私の真意を伝える役目をあなたにお願いしたいのです。彼女はあなたの旅立ちを痛切に感じておられるはずです。なんとも気の毒です。親身の同情が結局一番慰めになり、助けになるのです。情報を求めるために手紙を出すということは、かえって悪い場合や回復の見込みがない場合には、悲劇です…私はあなたがオーベルホーファー博士の家に泊まる予定だと言っておられたのを覚えていますが。私は彼とローマで会い、そのことを思い出しました。
あなたとウィーンでお会いできればいいのですが、私はデュッセルドルフ(1)に行かなければいけません。
病める者に私からの愛を差し上げてください。彼の不幸な奥さんはすべてが終わった後、いったいどうしたらいいのだろう。この恐るべき初めての日々に一体誰が彼女を助けてくれるのでしょう。ゼーブルグ博士夫人(2)はいますか。よろしくお伝えください。
あなたのJ.ブラームスより
注
(1)ブラームスはデュッセルドルフに行き、第55回ニーダー・ライン音楽祭で第二交響曲を指揮する予定であった。衣装のことを口実にしてこれを取り止めたのであるが、実際は創作意欲がわいてきて仕事を中断したくなかったのである。5月20日にアルトゥール・ファーベルに書いている。「音楽祭のためにドイツに行くよう要望があったけれど、ようするに夜会服だ。これはもうすましたと思ったのです。」7月にはベルタ・ファーベルに書いている。「まずあなたのご主人は古い服を送ってくれないでしょう。次に、素敵なチョッキの代わりにうっかり食器棚に吊るしておいたのを送ってくれるでしょう。デュッセルドルフで新品を買わなくてはいけない、という理由でお断りしました。これがこの状況ではいたしかたのないことでした。」明らかに、この言い訳を真面目に受け取ることはない。ヨアヒムが代わって指揮し、交響曲は熱狂的に支持され、第三楽章は繰り返さねばならなかった。
(2)フラウ・フォン・ホルシュタインの妹。
39.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ハウス・ザメックス [ガイルターレのアルノルドシュタイン]
1878年8月10日
親愛なる友へ
このお手紙の正当な持参者はさらに帽子をもってペルチャッハに参上いたします。この帽子をご自身用にお使いくだされば幸いです。これは、あなたが気に入っておられたハインリッヒの帽子とは実の兄弟で、あなたの黒いフェルトよりは額にくいこまないでしょう。母がトランクにもう一つ持っており、喜んであなたに差し上げたいとのことです。あなたの趣味を知っておりますので、周りにリボンを縫いつけようとしましたが、それではこの型を崩すことになるので止めました。
わたしたちはあなたの家で雨宿りした楽しい時間を今でも懐かしく思い出しております。あなたがあのモテット(1)をアルノルドシュタインに持ち出すことを許してくださって、わたしは大変嬉しく思います。わたしの目は鈍いものですから、あの種のものを細部まですばやく取り込めませんでした。最初は、大聖堂のネイブに、それも夕日の時刻に入ったときに受ける、香しくも茫漠とした印象でした。すべては明るくて色彩的であり、全体の効果を考えた素晴らしい技法がかすかに感じられただけでした。でも明晰な鑑識眼で全体を見なおすには時間と日の光が必要です。この曲の精神に浸った今、わたしが愛する対象の個々の特徴や美しいさわりを選り出すことができます。これほど楽しいことはありません。
わたしたちの若いイギリスのお友だち(2)から手紙を受け取りましたが、彼女は、「愛の歌(Liebeslieder)」のアルト、テノール、バスの部でまったく音楽的素養のない三人を徹底的に訓練して、今では彼女と歌って満足できる水準に達したとのことです。彼女は民謡を隣人に、彼女の話では、「愛の歌」,「五月の夜( Mainachat)」,「永遠の愛(Von Ewig Liebe )」(3)それにあのピアノ協奏曲のアンダンテの入った小コンサートを開いてブラームスを「接種」しようとしています。彼女はこれがもっとも相応しいプログラムであるとかたく信じています。
それからお願いがあります。母はここでいたいけな人(4)の健康に変化が起きたらと心配しています。お医者さんに看てもらえるでしょうか。ペルチャッハにはお医者さんは誰もいませんか。ぜひ一人教えてください。
さようなら。あなたの善意のお行いにあらためて感謝いたします。
あなたの誠実な友エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
ぜひアルノルドシュタインにいらしてください。
注
(1)「なにゆえ悩む者に光をたまわり(Warum ist das Licht gegeben dem Mühseligen)。」混声合唱のための二つのモテット、無伴奏、作品74の第1曲。ジムロックから1879年に出版。
(2)エセル・スマイス(Ethel Smyth)、ピアニストで作曲家。当時ヘルツォーゲンベルクに教わっていた。彼女の作品には、ワイマールで公演された「ファンタジオ(Fantasio)」、大陸およびコベント・ガーデンで公演された「森(Der Wald)」、1907年にライプツィッヒとプラハでの「難破者(Strandrecht)」――1908年にはロンドンでニキシュ指揮でのコンサート形式で公演――が含まれている。その他室内楽多数。
(3)二つの歌曲、作品43。
(4)フラウ・エリーザベトの姉。
40.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年8月12日
親愛なる友へ
ここには若い結核医が一人いますが、彼自身が目下病気療養中ですから、お姉さんの診察にはまずいけないと思います。
アルノルドシュタイン訪問以外のことは省かせてもらいます。あなた方のこちらへの訪問と帽子に関する長時間の議論(じっさいH.の方がずっと似あいます)に感謝します。
あなたのモテット交換(1)には驚きました。私の作品をあなたが専有している限り、愉快とはいえませんが、一方では他人の作品を注意深く見る機会ができるので愉快でもあります。研究を要するが、その報酬もあるでしょう。
そちらの家の名前とあたりにホテルがあるのか、また選択の可能性が多いかどうかお教え願います。
お会いするまで、まずは取り急ぎ。
ご存じの通り、誠実なるあなたのヨハネス・ブラームスより
注
(1)彼女はブラームスに夫のモテットを代わりに送っている。ヘルツォーゲンベルクのモテットの4曲はリーター・ビーダーマンから出版された。
41.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[アルノルドシュタイン]、1878年8月15日
親愛なるわが友へ
このお手紙はあのモテットのその後についてです。あなたがご親切にもこの貴重な歌をわたしたちに持ち出すことを許してくださったとき、わたしは、半分はわたし自身に「それとモテットも」と申しました。お返事がないものですから、暗黙の承諾と受け取り、ほかのものに一緒にしました。でもこれは大事にしてありますし、わたしたちが存分に可愛がったあとで、良い状態でお返しいたします。まあそんなに怒らないで。この窃盗事件の犯人はわたしです。でもわたしはあなたが意味ありげにウィンクしたものと思っておりました。「なぜ、なぜ(Warum? Warum?)」(1)このとびっきりの喜びを出し惜しみされるのですか。第一楽章では感激を押さえられませんでした。最初のページ(2)と次のページの「なぜ」までは、「そして来るなかれ」の見事な節付け以外何もいうことはありません。アルトの切分、とくに係留したホ音は愛らしすぎます。わたしは小節ごとに感嘆符をあなたに分けて上げることにします。
わたしたちはグルムの宿に泊まっていますが、わたしたちの二部屋のほかは一部屋しかありません。でも保養客は少ないので、たぶん空いているだろうと思います。もう一軒宿がありますので、いらっしゃる前にお便りを頂ければ、ハインリッヒが手配できると思います。アルノルドシュタインは大変快適です。あなたのよれよれの本(3)にも書いてあるとおり、「楽しい位置」にあります。欠点としては、蝿と鴨の群がいること、騎兵分隊がここに駐留しているのでのどかな景色にそぐわないことです。いいことは数多くあります。青々とした植物、この上なく綺麗な岸辺、広々とした樅の森、ヴェルデンよりも澄み切った空気、ドブラッチの輪郭を前景にしたガイルタールのうっとりする山並みがあります。植物のように静かに過ごすには良い所です。でもどうしましょう、あなたにはお魚がないのです。早いお返事であなたの忠実なヘルツォーゲンベルク夫妻の心を喜びで満たしてくださいますよう。
注
(1)モテットは 「なぜ、なぜ」で始まっている。
(2)楽譜の7ページ8小節と12小節。
(3)ヴァルヴァサドール、「ケルンテンの歴史」
42.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年9月7日
親愛なる友へ
私はアルノルドシュタインに明日日曜日11時21分に到着する予定です。もし私の手紙が私より先に到着し、タルヴィス、ヴァイセンフェルスあたりに足を延ばしたいお気持ちがあれば、私の切符も買って駅にいてください。あるいは二度とそちら来られる予定がないのであれば、私はアルノルドシュタインに滞在することにします。
あなたのJ.Brより
(もちろんこの手紙はH.とEl.双方に宛てたものです。)
43.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[アルノルドシュタイン]、1878年9月12日
親愛にして善良なる友へ
もしやお知らせを受け取っていない場合を考えて、オイゲニー(1)から伺ったことをお知らせします。彼女のお母さんはキールにはいません。このことはとくに問題はないのですが、現在は、いくぶんか快適な空気で彼女の腕(2)を癒す目的で、ほんの短い期間リューデスハイムに滞在します。今週末にはフランクフルトに行きます。その間にマリー(3)がフランクフルトに来ています。フェリックス(4)が大変危険な状態のようです。オイゲニーによれば、片肺は手遅れですが、もう一方の肺は治る可能性があるとのことです。彼女たちはフランクフルトに近いファルケンシュタインの療養所につれていくことを提案しています。今週末には、オイゲニーが彼を連れて療養所を見にいき、もし彼が気に入ればそこにあずかってくる予定です。
あなたがわたしたちを訪問して頂いたことをあらためて感謝いたします。ご存知の通り、わたしたちはあまり派手には騒げなかったのですが、ご訪問でわたしたちが幸せであったことをご確認頂けたと思います。博士様、あなたと散歩に出かけることは、名誉と感激であるばかりではなく、心にふれる悦びでした。列車が蒸気をはいて行ってしまってから、わたしたちはまた静かな生活に戻りました。ヒルデブラント(5)は顔を出しませんので、このわびしい部屋での自然と仕事との交わりの中で、唯一の気晴らしになるのは、あなたと過ごした日々の貴重な思い出です。彼は今腰を下ろし、四重奏曲の楽譜に向かっているところです。新しいテーマと変奏の音符に譜尾を打ちながら、洗礼者ヨハネの唇から漏れる一言は、たとえ全能の神によって書かれたにせよ、「作曲様式」(6)にかんする百の論文より価値があると思っております。
わたしは今、ロ調と嬰へ調とイ調の三つの単調からくる熱に断続的にうなされていますが、わたしの料理の本にはこの治療法はのっていません。
ええたしかに、この部屋にはあらゆる種類の霊がさまよっていて、迷信深いわたしたちは追い出さないように気をつけています… では今日のところはさようなら。ドレスデン近郊のホステルウィッツの宛先を送ってください。それともライプツイッヒの宛先にしますか。そして心の片隅に友愛の心をお願いします。それを考えるだけでこの上なく幸せなのです。
いつも誠実なあなたのエリーザベト・H.より
注
(1)オイゲニー・シューマン(Eugenie Schumann)、ロベルト・シューマンとクララ・シューマンの4番目の子供で末娘。
(2)フラウ・シューマンは数年来腕の神経性リューマチを患い、しばしば演奏ができなかった。キールのエスマルク医師(Dr. Esmarch)はこの治療に当たっていた。
(3) 一番年上の娘。
(4)末っ子で最も将来を見込まれた男の子。シューマンがエンデニックの精神病院に入院中に生まれた。彼の詩はブラームスの歌曲の題材になっている。作品63の第5曲、第6曲、作品26の第5曲である。1879年結核で死亡。
(5)アドルフ・ヒルデブラント(Adolf Hildebrand,1847―)、彫刻家でマイニンゲンのブラームスの記念碑、ヘルツォーゲンベルク夫妻の墓のレリーフを製作した。
(6)リヒアルト・ポール(Richard Pohl, 1826-1896)、雄弁なワーグナー信者。Musikalisches Wochenblatt で「いかなる様式で作曲すべきか」のタイトルで、若き音楽家への手紙の連載を寄稿した。(7)1876年に出版された3つのピアノ作品、作品76(1巻の第1曲と第2曲、第2巻の第7曲)のキー。
44.ブラームスからエリーザベト・ヘルツォーゲンベルクへ
ペルチャッハ、1878年9月14日
フラウ・プック
小売店主の妻、
クラーゲンフルト
ブルクガッセ
(パン屋のエンペルガーズ)
これが郵便局長の奥さん(1)から知り得た宛先です。それではどうも。あなたのお手紙と私の楽しかった訪問に感謝します(私は若い貴婦人にも同等の感謝をしております)。
フロイライン・ポストはすすんでお手伝いしてくれますが、困ったことに、いまのところこのお茶だけはどうもいただけないです。フラウ・プックをためしてみてください。もしうまくいかなくても私を責めないでください。
J.Brより
注
(1) フラウ・ウェルツァー、ペルチャッハのホテルと郵便局の女主人。ブラームスとは仲がよかった。フロイライン・ポストは彼が娘に付けた名前である。
45.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年10月4日
親愛なる友へ
あなたが原作者であることの証拠は王家の獅子風の筆致だけですから、これからは、あなたのモテット(1)を不当に占有するのはいとも簡単になりますね。では、この問題を解決する調停裁判所はどこにあるのでしょうか。私は正直ですから、ときおり作品をお預かりして、写させて頂くというのはいかがでしょう。あなたは安心して、写本用の用紙の山を探し回ることもなく心穏やかに眠れます。
わが家はごった返し、ほこりで息が詰まりそうです。妻が料理しているときは、私は雑役夫です。それでもめどが立ってきましたので、まもなくいつもの快適な日常生活に戻ることになるでしょう。
あなたがライプツィッヒ(2)におられたときには、私たちはウィーンで一日を過ごしていました。今度はちょうど逆ですね。これではまるで全員が場所を替えたがるおとぎ話ですね。しかし、ケルンテンでの出会いの記憶、一月の再会、バイオリン曲(3)が聴けるという期待で、私たちは落ち込んではいません。非常な情報通である人物から、あなたが第三交響曲を書き終えたと伺いました。それもト短調だとか。あなたご自身はご存じでしたか。私たち夫婦からよろしく。
ヘルツォーゲンベルクより
(エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクから追伸)
よせばいいのに交響曲を作曲した人は誰か当ててみてください。わかりませんか。リヒアルト・ワーグナー(4)です。わたしたちはとうとうこの久しく求められていた模範を聞かせて頂くことになります。この曲は、わたしたちを最初の部分の繰り返しから「解放」し、アラビア模様をつなぎ合わせて、形のない神秘的形式を開示してくださるはずです。わたしたちはこの邪悪な騒音と評論家と称する人たちのおしゃべりを心待ちにしています。フィリシテ人どもは「ジークフリート」と「神々の黄昏」に歓喜し、騒ぎたてています。見本市のアトラクションで一番の人気はこの曲です。みなさんはウィルト(5)とファフナーのどちらを崇拝していいのかも分かっておりません。
こちらに戻って、気落ちすることが多々ありました。エンゲルマンは気の毒に重態です。ぞっとする病名です。でも彼は回復しつつあるように見えましたし、奥さんも以前よりは元気です。この老人はソファに横になり、病気にいらだちながらも、彼が描いた魅力的なヴィーナスとキューピッドの小品をながめて心を慰めています。
わたしたちのイギリスのお友だち(6)はユトレヒトでエンマの家に泊まっています。ここで彼女はホルン・トリオとハ短調四重奏が聴けるので大変ご機嫌です。わたしたちはあなたの伝言をすぐにリンブルガー(7)に知らせることができます。いつ、いつフンボルト・シュトラーセにみえる予定ですか。あなたにはぜひ来ていただきたいと思います。わたしたちはフィリシテ人の水の中にいる魚のような気がしてなりません。それでは。
妻より
注
(1)書簡39-41。
(2)ブラームスはフィルハーモニック協会の50周年(9月25-28)に招待された。彼は第二交響曲を第三夜に指揮し、帰途ライプツィッヒに立ち寄った。
(3)バイオリン・コンチェルト、作品77とバイオリン・ソナタ、作品78の作曲は1832年の夏に開始され、晩秋に完成した。
(4)1832年に作曲され、翌年プラハとライプツィッヒで演奏された交響曲。一時ライプツィッヒで短期間復活した。
(5)マリー・ウィルト(Marie Wilt, 1833-1891)、ウィーンの宮廷劇場のプリマ・ドンナ。彼女はライプツィッヒではブリュンヒルデ役を演じた。
(6)エセル・スマイス。
(7)ブラームス、作品40と作品60。
(8)ゲバントハウス委員会の理事。
46.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年10月18日
親愛なる友へ
あなたがブレスラウで指揮されるというのは本当ですか。わたしはこの知らせを信じられませんでした。計画をやりくりされて、ひょっこり現れるものとばかり思っていました。あなたの出席がフラウ・シューマン(1)のために計画した一番の目玉でした。このおめでたいときに来ないままでは、あの方を傷つけます。そのようなことは絶対になさらないでください。お手紙をぜひください。お会いできる見込みが立ちますし、コーヒーも煎っておきます。あいにく、今回はあなたをお泊めできません。その楽しみは一月にとっておきます。余分の部屋は虫食いだらけで、壁紙がはげ落ちています。ほかの部屋はフィリュ(2)が使っています。では取り急ぎ
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1) 1878年10月20日のフラウ・シューマンの演奏生活50周年の祝賀会(グラーツのピアニスト、カロリーネ・ヴェルターレルによるゲバントハウス・コンサート)。彼女に敬意を表し、14日には、シューマンの作品からなるコンサートがゲバントハウスにて企画され、黄金の月桂冠が捧げられることになっていた。ブラームスはブレスラウで22日に第二交響曲を指揮し、イ長調の四重奏を演奏するために出席できなかった。
(2)マリー・フィルンガー。
47.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年11月17日
(1)
E.H.
注
(1) 「わたしを哀れみください。憧れのインテルメッツォを送ってください。」ブラームスはカプリッツォとインテルメツィの新曲(作品76)を9月のアルノルドシュタイン訪問中に夫妻に弾いてみせた。上の手紙はイ短調のインテルメッツォを記憶したものである。フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの鋭い耳と素晴らしい記憶力の証拠である。
48.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
ウィーン、1878年11月
親愛なる友へ
今回私が送れるのはこれだけです。あなたがこんなに魅力的(1)に歌うロマンス(Romanze)は申し訳ありませんが、私の写譜職人の手が空いていないので、そこには入っていません。ですから、いずれかお持ちされたい場合には、ライプツィッヒで写譜を頼み、そのうちに私の譜を送り返してください。
長い手紙に返事を書けないのはなんと残念なことでしょう。私にはそれが楽しみなのに。
誠実なるあなたのJ.ブラームスより
注
(1)前の書簡の歌曲。ブラームスは後に「二人の甘い女の声と二人の甘い阿魔の声に捧げるロマンツェ(Romanze für 2 zarte Frauenstimmen und 2 zarten Frauenzimmern gewidmet)」と書き込んで送っている。
49.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年12月13日
親愛なる友へ
わたしは長く待ちわびたピアノの作品を送っていただきながら、一言のお礼も言わないまま今日を迎えました。そのせいで、わたし自身もその通りと思っていますが、恥知らずと非難してみえるのではないでしょうか。本当にわたしは、プードルのように恥じ入り、あなたが一生手紙を下さらないのではないかと、何のようにといったらよいのか、ただひたすら恐縮しております。もちろん、わたしは言い訳を何ヤードでも繰り出して、自分を正当化できるかもしれませんが、そうはしたくありません。かかる怠慢には適切な言い訳はありませんから。こうして、わたしは自分の罪を意識しております。あなたのお許し、免罪、恩赦その他すべてをお願いするものです。
ご存じのように、これらの大事な作品は写譜職人のところにあります。ライプツィッヒの写譜職人は仕事が遅いのです。でも明日には送り返します。ロ短調(1)のものは、練習してみると、なんとも楽しいものですから、わたしが取っておき、わたしの代わりにイギリスのお友だち(2)に写譜してもらっています。でも言っておきますが、わたしには、何処を探してもいない、すてきなイギリスの女の子がついています。
さてバイオリン・コンチェルトは本当にまだ完成していないのですか。そのことを嘆く声をユトレヒトから聞きましたが、それは信じるつもりはありません。仕上げる前に約束するなんてあなたらしくもないですから。あなたはアルノルドシュタインでわたしたちにちゃんと約束されました。ああ、あの眠気を誘う、懐かしのアルノルドシュタイン。そこでは対位法を楽しむ時間がいっぱいありました。ここでは料理と雑役を交互に繰り返しています。家政の恐るべき重荷がわたしの肩にのしかかり、ちょっとした息抜きにピアノの前にすわっています。いろんな理由で、わたしは一月を待ちこがれています。料理のできる人が来てくれて、正常に戻りたいものです。コンチェルト持参は問題ではありません。とにかくいらっしゃいませんか。さてここらで止めなくては。ロ短調の写譜職人さんが休ませてくれません。あなたが美しいものをみたければ、最後の8小節をご覧なさい。わたしたちは飽きることなく、繰り返し演奏しました。
わたしはまもなく、これらの曲を演奏しに、ユトレヒトのエンゲルマン家に行く予定です。はじめてエンマを出し抜けるとはなんという勝利の快感。
わたしの現在と未来永劫のお気に入りは嬰へ単調(3)です。わたしはそれを正確に理解していて、ピアニストの端くれであるからには、妙なる演奏ができると自負しています。
ではさようなら。わたしが悪かったものですから、嬰ハ単調(4)もロマンスも頂けないことを承知しております。
ハインリッヒ(彼は仕事で大変忙しくしています)からよろしくとのことです。エセル・スミスからも。彼女は大変美しいガボットとサラバンドを作曲しています。わたしたちは心待ちしていますので、あなたの訪問のときをお知らせください。
忠実なあなたのヘルツォーゲンベルゲより
注
(1)カプリッチォ、作品76第2曲。
(2)エセル・スマイス。
(3)作品76第1曲。
(4)作品76第5曲。
50.ブラームスからエリーザベト・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1878年12月15日]
親愛なる友へ
あなたが受け取ったかどうかを知りたかったのです。受け取っていないと厄介なことになります。あなたはいろんな言い訳にパテ・ド・フォアグラをかけておくのをお忘れです。ユトレヒトのエンゲルマン演奏会が終わったら、ロ短調をエンマに代わって彼に演奏して上げてはいかがですかな。あなたは信じられないし、その気もないでしょうが、私は大変慎み深い男でありまして、かかる優しい心遣いでご機嫌を伺うような真似はいたしません。
さて、私には特別なお願いがあり、これをそっくり実行して頂けるか葉書で返事を下さればありがたいのです。毎日リンブルガー領事に手紙を出そうとしていますが、あなたかヘルツォーゲンベルクが彼と面会して、私が新年には行きたくないことを理解させてほしいのです。ヨアヒムがこちらに来る予定で、彼とコンチェルトを試す機会を持ち、公演に向いているかどうか判断したいのです。それがかなり満足のいくものであれば、あなたにもいずれ聴いて頂けると思います。領事は私を招いて、ハ短調(1)その他を指揮させようということですが、どうしてもその気にはなれません。そちらの指揮者は何のためにいるのですか。印刷される前には、そしてそのときだけですが、自分の作品は自分で演奏したい気になるものです。
ヨアヒムは非常に忙しく、あなたの場合と同様、私の写譜職人も仕事をこなし切れません。彼がきちんと写譜された自分のパートは手にするのは明日が初めてです。彼には29日とそれ以外にも大きなコンサートの予定があります。領事にこのことを話してください。とにかく、領事にすぐにも会って頂くのが切実なお願いです。彼に最後の返事を書いた気持ちになりたいのです。
* * * * *
結局葉書ではなく便箋で書いてこられることになるかもしれませんが、オランダでは大学の休みが始まっているか、それとあなたのユトレヒト訪問の裏に何か悪いことでもあるのか教えてください。
グリーク(2)もライプツィヒにいましたが、うまくいきましたか。私はリーターの新聞(3)で彼の公演の悪評を今読んだところです。つまり希望がもてるということですな。
さて私のことばかり書いてしまいました。深くお詫びします。内容を変更するのはもう手遅れです。
誠実なるJ.Brより
注
(1)第一交響曲。ゲバントハウスの新年のコンサートで再度公演されることになった。
(2)エドワルト・グリーク(Edvard Grieg, 1843-1907)、ノルウェーの作曲家。
(3)Allgemeine Musikalische Zeitung。リーター・ビーダーマン社発行。1866年に設立し、1882年に廃刊。1869年以来はフリードリッヒ・クリサンダーが編集。
51.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年12月15日(1)
親愛なる友へ
とっても気が進まないのですが、あなたの美しい音楽をお返しします。もしあなたがわたしの返還を評価されたしるしに嬰ハ短調とロマンスを送ってくだされますならば、あなたの献身的な奴隷になり、24時間以内にお返しすることを約束します。
ちょうどエンゲルマン家から悪いニュースを受け取りました。皆さんは二、三日前にはとても元気でした。教授はお父さまがしばらくの間は、回復可能ではないかと考えておりましたが、突然悪化し、昨日はご老体が夜までもたないのではと心配しておられました。女の人たちは何も知りません。この瀕死の病人は気休めの希望で望みをつないでいるところです。わたしはこれから出かけ、変化があり次第お知らせします。
さようなら。わたしたちのことをいつまでも心にかけてください。わたし(病的なお喋りの)が返事を出さなくて、あなたが怒っているところをみると、わたしたちが戻ってからすぐに送った、手紙と写真はあなたには届かなかったと推察いたします。わたしたちの大いなる喜びでありましたピアノ曲集には再度お礼申し上げます。わたしたちのことを憶えてくださっていたファーベル夫妻にはよろしくお伝えください。
エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
あなたの写真は市場で、一つ一ポンドで売られているのと同じ出来映えですよ。これを渡してくれた女の子が無邪気にそこに書いてあるのは諷刺ですかと聞いていました。
同人より
注
(1)ノート用紙には「延期は断念にあらず(Verschoben ist nicht aufgehoben)」という格言がある。
52.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン 、1878年12月15日]
あなたは何事も重大に考えすぎです。ヘルツォーゲンベルクがもし領事と後に引けない約束をしていないのであれば、私が言いたいことは、ヨアヒムはぜひともこのコンチェルトを演奏したがっていますから、いずれはうまく行くということです。同じ夜にあの交響曲(1)を演奏するのには反対です。オーケストラが実際疲れるからです。コンチェルト(2)はやってみなければ、難度が判明しないものです。28日までにベルリンに行って、ピアノで彼とリハーサルをするつもりです。コンチェルトがニ長調であることもプログラムの選曲の上で考えなければいけないことです。たしかに私は写真を受け取りました。私は恩知らずの下司です。
J.Brより
注
(1)書簡50の注。
(2)バイオリンのためのコンチェルト 。これにヨアヒムが運指記号と運弓記号を付けている。ブラームスは、ヨアヒムのウィーンのコンサートに「彼の指をささげる」ことが最初の衝動であったと述べながら、秋には書き上げながら、バイオリン・コンチェルトをそのまま持っていた。ブラームスのコンサートでの演奏を嫌う傾向は根深いものであった。彼は次第に一聴衆として自分一人で演奏するのに慣れてきていたのである。それでもブラームスは、「何もしないで立っている」だけで、ヨアヒムがオーストリアで演奏するというのは考えたくもなかった。したがって、バイオリン・コンチェルトを指揮するしかなかった。ソロのパート付きの総譜を彼に送りつけて親切といえるであろうか。中間楽章は(もちろん最上であったが)破棄されていており、「弱々しいアダーヂオ」を挿入し始めていた。「ライプツィッヒの人たちにこの喜びをとっておくのが良いのかもしれない」と彼は言った。「ここではピアノに相談することにしよう。」相談の結果は大変良好であり、新作はライプツィッヒの新年演奏会のプログラムに入れることが可能になった。ブラームスは12月18日にベルリンに行き、そこからヨアヒムと一緒にライプツィッヒにやってきたのである。
53.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1878年12月23日
親愛なる友人へ
私はまさにリンブルガーとの話の結果をお知らせしようと思い腰を下ろしたところへ、あなたの葉書が着き、驚きましたが、同時に嬉しく存じました。私は直ちにリンブルガーに手紙を出しましたが、今まで返事をもらっておりません。彼は翌日の午後、委員会でプログラムの決定をしなければなりません。幸いなことに、彼はすでにヨアヒムに電報を打って、1月1日は彼を確保しました。私たちはこれまで、この日程で総じてうまくやってきました。
私の感想ですが、あなたのベルリン行きが遅すぎませんか。リハーサル、少なくとも最後のリハーサルはコンサートの直前になります。クリスマスの後、27日にすぐに直行されてはいかがですか。決定した日時を知りたいので通知してください。第一バイオリンの譜が5部と、第一バイオリンの譜が5部、ビオラの譜が3部、ベースの譜が8部(チェロ5部、ダブルベース3部を別々に写譜したら)要りますでしょう。トランクを私たちに預けてください。あなたはたぶん近くに、私たちの空いている部屋にでも置いておきたいでしょうから。
私は調であれこれ悩まないようにします。私の知っているのは、コンチェルトは嬰ト単調だろうということです。しかし、リンブルガーにはご自身で手紙を書いてください。あなたからかならず手紙が来ると約束してはいませんが、私はそうされるもと了解させていただきます。 私たち二人から心からの挨拶を。
誠実なるあなたのヘルツォーゲンベルクより
(エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクから追伸)
12月22日
エンゲルマン氏は今朝3時に安らかに死去されました。まるで眠りにつくようでした。
あの方も人生には執着しておられましたのに。
わたしは午後にはそちらに出かけます。この苦しみの中にいる女の人たちがお気の毒で、会うのが恐ろしいのです。ユトレヒトのエンゲルマンがそこにいるのが救いです。あなたの誠実な友よりの挨拶を送ります。
エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
54.ブラームスからハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ベルリン、1878年12月29日]
親愛なる友へ
私は明日月曜日2時にトランクを送る予定です。ライプツィッヒ到着はおおよそ、5時30分、5時15分、5時7分半か5時20分です。正しい街に送られたことを確認したいです。ですからあなたの手元近くに置いてくださいますよう。では失礼します。
J.Brより
1879年
55.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1879年1月]
大変親愛なる友へ
私はあなたが私の整理整頓にかんしてどうお考えか知りませんが、私が聞かなくてはいけない質問によって意見を変えないでください。
あなたのお兄さんは、ショパンのマズルカ作品41の2(1)、ホ短調の原稿を私に預けられましたでしょうか。彼のマズルカの多くの版や写本がここに長年にわたって山のように積もってきました。そこで私は昨日この整理に真面目に取り組んでみました。ヘルテル所有の作品41の印刷業者による写本以外のも、二番の自筆原稿があります。私は、うすい鉛筆で印をつける癖があるので、それがヘルテルの物であるとは思えないのです。たとえば、マズルカの束にはあなたのお兄さんの名前があります…わたしはいくえにも言い訳と弁明をお願いしなければなりません。あなたが整理以外のことでも私に厳しい判断をしておられることを知ってさえいたら、わずかばかりの整理のことで後悔することはなかったのに。
私の演奏旅行はライプツィッヒ(2)の後は坂を下るようなものでした。ライプツィッヒ以上に楽しくはありませんでした。まあ演奏旅行ではどこでも友人やもてなしがあるわけではないから、すこしは大げさかもしれませんが。ささやかな点では、むしろ成功だったでしょうか。聴衆はより温かく活気もありました。ヨアヒムはリハーサルごとに私の作品をより美しく演奏しました。ここでのコンサートでは、彼のカデンツァはあまりに見事で、聴衆は私のコーダに入ってようやく拍手を止めました。でも、フンボルト・シュトラーセに戻り、三人の女たちにもみくちゃにされる特権に比べたら、それが一体なんなのでしょう。あなたは「女性」という言葉には賛成されませんでしょう。
私はあなた方がノルウェーには行かれないことを希望します。それよりケルンテンにいらっしゃい。あるいはバーデンに行かれるなら、私はお会いできるでしょう。互いの仲間に会えるという利点があります。かならずしも私の仲間ばかりではありません。取り急ぎ失礼しますが、お仲間にはよろしくお伝えください。
誠実なるあなたのJ.Br.より
注
(1)この財産の所有者はヘルテル社であった。
(2)ヨアヒムは1月14日ウィーンでバイオリン・コンチェルトを演奏した。その後、一人でイギリス日渡り、クリスタル・パレスでは要請に応じて二度演奏した。ブラームスと再会後、ブレーメン、ハンブルク、ベルリンで共演した。
56.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1879年4月3日
親愛なる友へ
あなたを上手くおもてなしできなかったことで、わたしは気がとがめています。わたしの前の葉書(1)はあなたの少し謎めいた手紙にたいするお粗末な返事です。わたしは上手な言い訳で4ページを埋めることもできますが、あなたを尊重して控えております。ですから、あまり辛く当たらないでください。
フォルクスランド夫妻(2)は、あなたが説得に応じて、帰る途中でライプツィッヒに立ち寄るというという噂を流しております。この手紙はその説得を試みようというものです。地理に明るい人はウィーンへの自然なルートだといいます。地理に不案内なわたしはふたたびお会いできれば非常に嬉しいというだけです。一月のわたしたちにたいする騎士的作法を考えると、あなたにお会いする権利があるようにも思えるのです。ですからどうか、万障繰り合わせてご来訪をお願いできませんでしょうか…
ケルンテンでお会いするのはいかがでしょう。わたしたちはノルウェーには行かずに、結局オーストリアに行きます。八月の中旬まではとても出られませんが、その後あなたがケルンテンのアルプスに行こうと思っています。あなたはここの日陰で憩いたいはずです。
主人も右手を痛めていなかったら、この手紙に誓願を書き加えたはずです。そんなわけで、彼からは挨拶だけですが、わたしの言ったことすべてを保証するといっております。フンボルト・シュトラーセで、その後わたしの青の部屋でアウフヴィーダーゼーン。
誠実なるあなたのエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)葉書は紛失している。
(2)書簡1の注記。
57.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ベルリン、1879年4月15日]
親愛なる友へ
あなたの手紙に書かれたニュースのおかげで、私はライプツィッヒをまことに心穏やかに通過することができます。あなたがノース・ケイプを断念して、ウィーンとグラーツに行かれるというのは朗報です。家に戻りたい今、ライプツィッヒに滞在するよりはるかに快適な気分でお会いできます。私はグラーツにも、ケルンテンの山を越えては谷を越え、あなたのお好きな所ならどこにでも参ります。取り急ぎ失礼します。
誠実なるあなたのJ.Br.より
58.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ、1879年4月21日]
お忙しいところすみませんが、いつかあなたが嗅ぎ回っておられたショパンの緑の楽譜をドレスデン、カイザーシュトラーセ 5の兄宛に送ってくれませんでしょうか。お許しがあれば、ウィーンを通過するときに、お宅に盗みに入って荷造りしてさしあげたいところです。兄は今どうしても自分の緑の楽譜がほしいと申しております。
わたしたちはあなたのライプツッヒ通過を渋々了解しましたが、大いに失望しました。あなたの来訪を夫婦でひたすら心待ちしていましたのに。
でも、山でお会いできる見込は慰めになりました。わたしたちが五月にウィーンを通過するときには、あなたはウィーンにはいらっしゃらないのですから、ケルンテンの方が確実です。なぜあなたはグラーツを訪問されるのですか。そこではあなたに何もしてあげられません。わたしがそれに不平をもらす筋合いではありませんが、ティエリオッツ(1)夫妻が接待してくださるかもしれません。
わたしは嬉しいことに、嬰ハ調とハ長調が見かけほど難しくないことが判り、ピアノ曲集(2)の演奏がいっそう楽しくなりました。
ハインツからは最上の愛を。彼はケルンテンとあなたのことでわれを忘れています。彼はこもりっきりで、短い宗教合唱曲(3)に恐ろしく夢中になっており、この夏あなたを悩ますことは間違いありません。彼は弦楽三重奏の二番(4)を書き終えましたが、これは非常に響きが良く、大変好ましく、良く書かれています。
わたしたちはキルヒナー夫妻に招待されましたが、パーティーの後半には困りました。彼とわたしは一時間半以上デュエットを演奏しました。もちろんすべてキルヒナーの作品です。たしかに、デュエットは、とくに初見演奏の場合、楽しいのは演奏者だけです。親愛なる旧友キルヒナー。わたしが毎回新曲を用意していきますので、彼はいつもご機嫌ななめなのです。彼は傷ついた調子で、「なぜこんな曲を演奏しなければならないのか分からぬ」と言います。また、「そんな曲に興味を持つべきではない。」それでもいつもさっさとピアノに向かいます。可哀想に孤独な人。本当はこのデュエットは面白いし、事実わたしは彼と演奏しています。楽しいタッチがたくさんありますし、彼の作品には真の音楽家らしい特徴があります。でも、大部分が非常に感傷的なこの小品をマスターするために腰を下ろし、何度でもくりかえし、自分だけのために演奏し、鍵盤上の中間音を親指で出すなんて。一体誰がこんなことできると思います。
キルヒナーは聖パウロ教会でオルガン・リサイタルを開きました。それも招待ではなく、はじめて予告したものですが、トマス教会に空席ができそうなのを見越してのことだとわたしたちは思います。それは情けない演奏会でした。真のオルガン音楽は一つもなく、奇妙な半端ものばかりで、ほとんどがシューマンのペダル付きピアノ用の練習曲(5)それに「天国と妖精(Paradise and the Peri )」でした。彼はペダル演奏の部分はさけ、「エコー」でゆらめく転調を演奏する間、片一方のペダルを15分も押さえていました。彼は始めるときも終えるときもうまくやれず、ある部分からつぎの部分へ、両方を見苦しいやり方で押さえて都合よくブリッジしました。本当に、しろうとがストップでふざけているのを聞いている感じでした。バッハのテーマが出てきたと思うと、また期待を裏切り、ほんの3小節が続くだけで、しかも平均律クラヴィア曲集のテーマです。オルガンは彼にとって平面航法のように容易なことだと思っていただけに、わたしたちは失望しました。
もう一つ気に掛っていることがあります。ウィーンの音楽院はどんなものでしょうか。作曲志望の若い音楽家に入学を薦められるでしょうか。
ここには学校を変わりたい人が二人ばかりいてハインリッヒの忠告を求めてきました。音楽院といえるもので、どこがお薦めですか。ベルリン、フランクフルト、それともウィーンでしょうか。ノッテボームは個人教授に熱心でしょうか。一人はそれを望んでいますが、彼の学資では不充分ではないかと心配しています。こんな風にうるさくお願いするのは恥ずかしいのですが、最良の方以外に忠告を求めてもむだですので…それにあなたはすべての質問に一ページで答えられる方です。
では歓喜のアウフヴィーダーゼーンのご挨拶とわたしの限りない尊敬の念であなたは晴れて釈放されます。
あなたのお喋り箱 エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)フェルディナンド・ティエリオット(Ferdinad Thieriot, 1838―)作曲家、当時グラーツのシュタインマルク音楽協会の芸術監督。ブラームスと同郷で、ともにエードゥアルト・マルクセン(Eduard Marxsen)の弟子である。
(2)作品76、現在はジムロックから出版されている。
(3)「混声のための12の宗教的民謡、作品18」。
(4)「バイオリン、ビオラ、チェロのためのイ調の三重奏曲第二番」。
(5)作品56。
59.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1879年4月29日]
親愛なる友へ
私はどうにかご質問に答えられる程度ですから許してください。当然返事をだすべき、心優しくて魅力的な手紙にたいして、私の手紙を書く意欲がわくまで待つつもりはありません。手短に述べましょう。作曲教育に関しては、われわれの音楽院は恐るべき状態にあります。教官を見ればよいのです。私のように生徒や作品(1)を見る必要はありません。
フランクフルトも現在のところ薦めません。音楽院に限定するとしたら多分ベルリンかミュンヘンでしょう。ご存じのように、私はこれらの音楽院をひいきにはしていません。私の知るところでは、ノッテボームは一回のレッスンで3グルデンを取ります。これは暗に、彼がわれわれの配慮を必要としているということで、われわれが彼に格別の配慮を期待することはできません。私は教師として彼を強く推薦できます。私のところに来た人をすべて彼のところにやりました。彼の成果には満足する理由があるからです。
ウィーンにはいつ来られる予定か、ぜひお知らせください。私は一週間ほどペルチャッハにいてから来たいので、それに合わせて調整します。私はまたベッドを7つも予約し(2)、今頃はそちらにいるはずですが、祝典週間(3)と天候不順のためにここにいます。
祝典行進の新聞報道を笑ってはいけません。美しさは期待以上であり、筆舌に尽くしがたいものでした。
キルヒナーのオルガンの描写は愉快でした。彼はあなたのために、20年以上前にスイスのご婦人方を仰天させた悪戯のすべてを演じてみせたわけです。しかし、ライプツィッヒの教区委員で、あなたほどの鋭く可愛らしい耳の持ち主はいないでしょう。
ここだけの間の話ですが、聖トマス教会のカントール(4)のポストについて特にご存じですか。私にはどうでもよいこととは思いますが、何も知らないままで決断を迫られています。
急ぎの乱筆をお許しください。あなたとハインリッヒと私たちの若いお友だち(5)への挨拶を受けてください。
あなたのヨハネス・ブラームスより
注
(1)ブラームスは過去20年にわたり1863年に創設されたオーストリア政府の若手音楽家の教育と育成のための奨学金給付の委員会のメンバーであった。彼はこの権限において、ウィーン音楽院の修士や学生を判断する機会が充分にあった。彼の誠意は欄外のメモの意見で示されており、ハンスリックがそれを1897年の6月19日付けの Neue Freie Presse 上で公表している。1884年、彼はこぼしている。「年々、われわれの持っている数少ない才能を台無しにしているのは不名誉であり、許しがたいものである。」しかしながら、この状況は多少改善されている。
(2) ブラームスは二部屋しか使わないのに、プライバシーのために田舎では家を一軒借りきることがあった。
(3)皇帝と皇后の銀婚式。
(4)キルヒナーがヴィンテル・チュールでオルガニストであったことをさす。
(5)ブラームスはバッハが保持した聖トマス教会のカントールのポストを提示された。
(6)エセル・スマイス。
60.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1879年5月6日
親愛なる友へ
質問に間髪入れずにお答えくださり、わたしは感激いたしました。わたしたちも現状はあなたが述べられたようではあろうと想像はしていました。ハインリッヒはその若者にウィーンの音楽院には行かないように強く忠告しました。わたしたちはカントール問題について考え、調べてみました。もしあなたがこちらにいらっしゃる機会があるならば、本当にカントールの椅子を光り輝く色で塗り上げたい気持ちです。でも、あなたは再度その考えを断念されたのですね。
トマス合唱団は最近低調で何もかも機械的にこなしています。土曜日のモテット(1)は聴きに行く気がしません。しかしもちろん、今の監督さんは大変高齢ですから、新しい生命を注げる人なら、多くの尊い素材を充分に見いだすでしょうし、偉大な成果も出せるでしょう。よい演奏を保証する仕組みはできています。たとえば、リヒターは活用していませんが、オーケストラのリハーサルには何の制限もありません。レントゲンは、本格的なカントールがやってきて、町のオーケストラに関する特権を主張したらと考えただけで身震いしています。わたしたちはあなたが当地にいらっしゃる可能性は美しい夢と思っており、利点もありますが、あなたがこのポストを受けるとは思えません。さて、あなたの楽しい夏休み、大好きなペルチャッハはどうなりました。その湖の波から、ニ長調交響曲とバイオリン・コンチェルトが泡から誕生した女神のように美しく浮かび上がるのです。わたしたちにとって、ライプツィッヒにとって、つむじ風のようにあなたが降り来るのがどれだけ良かろうとも、いえ、あなたはこちらにいらっしゃるとは想像もできません。ところで、あなたがそれについて手紙される前にカントール席が申し出られたのは共通認識です。あなたをカントールとして迎えるなんて、これ以上に素晴らしいことがあるでしょうか…ではさようなら。この急ぎの乱筆をお許しください。あなたの大変親切なお手紙に再度深く感謝します。本当に祝典のためにオランダに行かれますか。わたしたちの「若き」友人もそうされることを望んでいる一人です。わたしと彼女同様に、ハインリッヒからもよろしくとのことです。ひとえにわがままな熱意で、あなたが当地にお出ましになることを切望いたします。近所に日当たりの良い素晴らしい貸部屋があります。
いつまでもあなたのエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)聖トマス教会の毎週土曜日の合唱隊によるモテットは古くから非常に人気のある行事である。(英訳者注)
(2)エルンスト・フリードリッヒ・リヒター(Ernst Friedrich Richter, 1808-1879)、傑出した理論家で、モリツ・ハウプトマンの後継者であり、1868年以来合唱隊のカントールであった。
61.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
グラーツ、1879年7月25日
親愛なるブラームス様へ
私たちは家族の問題が重なり、六月初旬から当地に拘束されていまして、八月初旬まではいとしいわれらの山にむけて出発することができません。私たちは再度ケルンテンに行くことを希望しておりましたが、運命は希望に背く決定を下しました。フラウ・シューマンは七月の終わりにガシュタインに行かれます。ほかに計画がありませんので、喜んでそちらで合流しようと思います。彼女にもそう伝えてあります。私たちは八月七日から十四日まで、ガシュタインから半時間ほどのボックシュタインに行き、親戚と一緒に滞在し、鉱泉に行って効能を試してきます。私の最初の計画は、途中でペルチャッハのあなたに会い、シュピタルとマルニッツ(ホーヘ・タウエルン)からガシュタインに行くというものでした。しかし、妻を八時間も馬に乗せて疲れさせるわけにいかず、ケルンテンも断念しました。どうかお怒りにならないでください。それは私たちには非常に辛いことです。あなたはフラウ・シューマンを必ず訪問されますのでしょう。ガシュタインで私たちと会うように日程を組まれては如何でしょう。どうかご検討の上私たちに喜びを授けてください。
あなたの決定にかんして、私たちを暗闇の中に置かないで、あなたが同意しておられるか、同意するつもりであるというお便りをすぐにもいただきたいと存じます。
いつまでも忠実なヘルツォーゲンベルクより
62.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
グラーツ、1879年7月25日
親愛なる友へ
あなたが私たちに合流されるおつもりで、12時間の列車の旅を厭われないということで、道中の娯楽を提供することを誓います。ペルチャッハで列車に乗り込まれたら、この包みの中にある楽譜を取り出して、心ゆくまで罵倒してください。あくまでも、する事も読むものもなく、緑の景色に飽きられたらの話です。メロディーと歌詞はF.M.ベームの「ドイツの古い民謡集」(1)から取ったものであり、多少の変奏をのぞいては彼の版に従っております、その正確性にかんしては彼に責任があります。私の関心は純粋に作曲にあり、大変面白い仕事でした。
私たちは八月四日の月曜日に出発し、ガシュタインには火曜日に着きます。きっと宿泊施設が不足しており、お粗末で高いでしょうから、私たちが滞在するとしても三、四日でしょう。そこからベルヒテスガーデンに行き、私の理解が正しければ、八月十四日ころにはフラウ・シューマンがそこに来られて私たちと合流されます。冬のことを話してみえますので、あなたはもう恒例の「ゲバントハウスの曲」をきっと書き終えられたと推察します。私たちはあなたのことは言葉通りに信じます。なつかしいティエリオットは、いつものように動じることもなく、シュタイエルマルクの恐ろしい場所に滞在するために出かけました。彼はグラーツに戻るときにはヴェニスを通ってきます。ヴェニスは、今回は私が喜んで通り過ごす町です。
あなたのヘルツォーゲンベルクより
注
(1)フランツ・マグヌス・ベーム(Franz Magnus Böhme, 1827-1898)、理論家。彼の歌と旋律の収集 Altdeutsches Liederbuch は1877年に出版された。これに続いて、ルドウィヒ・エルク(LudwigErk)が1893年から94年にかけてLiederhort を3巻出版した。ブラームスはいずれもよく言わず、ジムロックを通じて出版した7つのドイツ民謡集はベームとその方法にたいする芸術的抗議であるとみなされる。ヘルツォーゲンベルクの編曲は書簡58で夫人が言及している。
63.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ペルチャッハ、1879年8月3日]
あなたの小包大変ありがとうございます。この小包はさしあたり、私の昔の悪戯を思い出させ、私は不吉なため息を洩らしました。あなたの計画それにフラウ・シューマンの計画、色々あって不明瞭ですので、どうしてよいのかわかりません。現在のところはベルヒテスガーデンに望みを託すことにします。二、三日そこで一緒にくつろぐのはさぞかし魅惑的なことでしょう。では失礼します。
あなたのヨハネス・ブラームス
64.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1879年11月24日
親愛にして善良なる友へ
あなたはわたしたちのことをお忘れになったようでうね。でもその分、わたしたちはあなたのことを一層考えてしまいます。知らぬまに行き着く想像は、あなたのお幸せな無頓着な性格です。また返事を必要としないので選ばれた一つの想像は、仕事を始められて、意識しつつも、それを控えていらっしゃるというものです。あの懐かしのアルノルドシュタインで、あなたの快諾を得ることなしにわたしが写譜しました。あなたはきっと憶えていらっしゃるはずです。あなたは慇懃に、わたしに写本することを許してくださいました。また、その美しい容貌のせいか、他人の薦めかで、夢中になっている人にも、お見せすることをお許しくださいました。ところが、バッハ演奏会のためにわが家にいるすてきな女の子、アルトですが、輝かしい「死への憧れ(Todessehnen )」(1)を夢中で歌い、とうとうそれを写したくなり、人前でも歌えるまでになりました。大変素晴らしい歌唱なので、多くの人と彼女の歌を分かちたくなるというものです。まさに天上の歌声で、それを写すことが許されなかったら、彼女はどこかに消えてしまいます。ぜひ許して上げてください。どうかわたしたちの気の済むようにさせてください。なにとぞフロイライン・フィデス・ケラーの運命を封印する「よろしい」(それとも「だめ」ですって)を葉書でお伝えください。彼女は「貝殻(Meermuschel)」(2)も魅力的に歌い、写し、「棚に飾り( auf ihren Schrank legen )」たいのです。
それから、わたしたちはいつここでお会いできるのですか。あなたは一月にはかならずいらっしゃいます。わたしたちはそれを当てにし、楽しみにしています。真面目なところ、この清新な毎年の訪問を考えて、こちらでの事に辛抱し、押さえているのです。わたしはあなたのソナタ(3)については敢えて申し上げることはございません。主題については、当を得たのも、得てないのも、ずいぶんお聞きになったでしょう。あなたに知っていただきたいのは、その主題は心に訴えるものであり、音楽の領域でこれほどのものはざらにはないということです。あなたはこの主題をあれこれ解釈し、聴き入っているうちに幸せな夢に迷い込み、第一楽章に夢中になったのです。とりわけ最終楽章は、その精神が積極的にあふれ出て、あなたを虜にしています。自分をこんなに感動させるのはト短調のこの曲なのか、それとも、自分が気付いていない心の奥の自我を占有する他の何かなのかと自己に問いかけておられます。そして、ブラームスが付点八分音符を「発見」したのだといつもあなたを錯覚させる、あの愛すべき{音符}がそこにあります。
結局わたしはしゃべり通してしまいました。可哀想な方。どうか来るという内容の葉書を送ってください。わたしに献呈されるという曲はいつ受け取れるのでしょうか。破廉恥にもヘル・アルガイヤー(4)に別の曲を譲ったからには、今度はわたしのものです。これからは、わたしもクリスマス・プレゼントをだれかに約束しておいて、また取り上げてやることにします。
わたしの挨拶をあなたに。変ホ調のアダージオを天国的なペダル・ノート(5)で、長く続かせるためについ、ゆっくりと、ゆっくりと弾きますが、そのときはいつも、あなたはやはり良い人なのだと感じます。わたしたち哀れなライプツィッヒ子を訪ねることで、このことを証明してみせてください。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
ところでご存じですか。あなたのフィドル・ソナタは「構成においていくぶん自由」であり、各楽章には繰り返しがなく、「直截に書かれている」ですって。「直截に書かれている」というのはどういう意味でいわれたのか、彼らに聞かせていただきたいですね。しかし、最後の楽章は「素材において非常に豊かであり、他の作曲家なら第一楽章と呼ぶことであろう。」ケルナー・ツァイトンク(Kölner Zeitung )がこんなにお利口であると可笑しいとは思われませんか。
注
(1)作品86第6曲。
(2)テレーゼ(Therese)、作品86第1曲
(3)ト調バイオリン・ソナタ、作品78。1879年の夏に完成した。
(4)バラードとロマンス、作品75。画家、銅版画家、写真家、アンセルム・フォイエルバッハ(Anselm Feuerbach)伝の著者であるユリウス・アルガイヤー(Julius Allgeyer)に献呈。ブラームスとの友情は1853年にさかのぼる。
(5)作品78、20ページ、第5小節。
65.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]1879年11月
もっとも尊敬しかつ親愛なる友へ、それとも、もっとも親愛にして尊敬する友へ
若干強制された感じではありますが、告白することにします。あなたが私にそろそろ不満を抱いているのではと考え始めた矢先です。あなたのお手紙はまさに慈善的行為であります。絶対にそうではないって。あなたは私を良い人間だと思いやすく、私もその通りであることを保証する事ができます。ですから、私が枝葉のことで左右されるのがいかに遺憾なことか示唆せていただきます。この短い人生において出会う善なるものは小さく、その小さな善なるもの実に少ないのです。
したがって、あなたが手紙でまさに証明された誠意にたいし、意図して再度感謝の意を表するものです。どうぞ私の音楽にたいして言うべきこと、ためになることがあれば、控えないでください。多少のお世辞はいつも心地よいものですが、大多数はあらを見つけるまでは黙っています。
本当のところ、私はもっとも美しい作品の上にのったあなたの美しい名前を見てみたい気持ちはあるのですが、いざとなるとそれがそうは思えないのです。私は例のソナタ(1)を考えておりましたが、ご記憶のように、ザルツブルグ(2)ではだれもそれに満足しませんでした。
そう、私はあなたの歌手のことを忘れるところだった。彼女の望むものを、通常の精緻な形式で与えたらいいでしょう。しかし、ほかの歌手を怒らせるので、プログラムに「写本」という言葉をのせて欲しくはありません。
初めと同様に、いささか臆病な所見で終わることにします。新作のトリオ(3)のトリッキーな楽節は魅力的です。しかし私は、どうしても和解しがたいドイツ民謡集(4)のトリッキーな節を思い出します。私自身作曲してしまった数多くのトリックアウトしたドイツ民謡集をいやでも思い出し、この点については、えらそうに多くを語れた義理ではありませんが。その標本はあいにくまだ存在しています(5)。われわれはこの点について話し合う必要があると思います。わたしはハインツ氏が将来印刷されたのを知って喜ばれないと思うし、それにとても難しいように思えます、等々。
平均よりも良いか、あるいは、ばかげた手紙は市場に出回り、公共の財産になりやすいものです。同封した手紙は博覧会で「第二」(6)の見本になるとは思いませんか。
まだ一枚分の余白がありますので、ここで広まっているモーゼンタール(7)の冗談を書きます。私が芸術にかんしてあまりに真面目すぎると言いました。私だってときには陽気になると抗議すると、彼はこれを認め、付け加えました。「そう。君は興奮し浮かれているとき、墓はわが友(Das Grab ist meine Freund )と歌い出すものね。」
私はあなたがどんなカンタータ(8)を歌っているのか非常に興味があります。聴きに行きたいものです。
ご主人とほかの方にもどうぞよろしくお伝えください。
J.ブラームスより
キルヒナーに、「ダビッド同盟舞曲集(9)」 は大切に保管してあるとお伝えください。無事お返しできます。こんなに遅れているのはひとえに私の無精のせいです。
注
(1)バイオリンとピアノのためのソナタ、作品78。
(2)ブラームスはザルツブルグ近くのアイゲンにヨアヒムを訪問して、彼とソナタを弾いた。ヘルツォーゲンベルク夫妻はこれを聴くためにベルヒテスガーデンからやってきた。
(3)ヘルツォーゲンベルクの弦楽三重奏、作品27。
(4)書簡62、注記。
(5)四声の合唱曲用のドイツ民謡集、作品番号なしで1864年に出版。
(6)理事会のメンバーからの書簡。
(7)S.H.モゼンタール(S.H.Mosenthal)、詩「デボラ(Deborrah)」の作者。ブラームスは社交界とウィーンのレストランで会っていた。
(8)バッハ・フェラインでの。
(9)新ダビィッド同盟舞曲集(Neue Davidbündler Tänze)、作品18。
66.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]1879年11月28日
親愛なる友へ
わたしはあなたの感謝に利子をつけて、それも複利でお返しいたします。あなたのお手紙がわたしたちに無上の喜びを与えてくださるようになってからかなりの月日が経過しました。わたしたち凡人からすると、あなたのような方は、捧げられた愛と尊敬をたんに貢ぎ物として受け取るべきだとつい考えてしまいます。個々の人の捧げた割合を意識することなく、ただすべてにたいして感謝の意を表するのが普通です。そうであるとすれば、少なくともわたしたちを心に掛けて頂いたことに気付いては大変感激するしだいです。さらにあなたの魅力的な言い回しは言葉では言い尽くせないほど価値あるものです。
同封された手紙はまことに古典的です。これはわたしの署名入りのコレクションにするつもりはありません。あなたの所用物として保存すべきです…わたしはお喋りを続けたいのですが、明日のコンサートで直さなければいけないパートがあり、いろいろとお見舞いに伺わなければならない所もあります。懇意だったクレンゲルは気の毒に61才で死亡しました。彼を尊敬していた6人の子供さんは悲しみにうち沈んでいます。彼らはさまよう羊のようです。今年の冬はいつもよりいやなことが多いみたいです。
ハインツは挨拶とトリオに頂戴した親身の批評に感謝をあなたに送ります。彼は今でも信じていますが、聴いて頂けたら、もう少し寛大な評価を頂けるはずとのことです。わたしたちは実際歌いやすく、練習での出来映えは満足のいくものでした。たしかにトリッキー過ぎる曲があったことは認めています。
フロイライン・ケラーは歌のお礼を言っております。彼女は本当に心にしみるようなアルトの声の持ち主で、完璧に音楽的です。ウィーンで歌える機会があればとわたしは思っております。わたしのことをアルトゥール・ファーベルによろしくお伝えください。彼のお姿を拝見してとても嬉しかったことを奥さんに必ずお伝えするつもりです。ではさようなら。もう一度感謝申し上げます。どうしてわたしたちが不満を抱いているなどと、あなたがお考えなのでしょう。わたしには理解できません。でもかまいません。少なくとももう充分にお話ししました。どうかお見限りなさいませんように。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
67.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]1879年12月1日
親愛なる友へ
いそいで暗譜しましたので、あなたの貴重な原稿をお返しします。おたずねのわたしたちのコンサート・プログラムも送ります。今回の公演はいつもわたしたちの喜びであり、苦労に対する充分な報酬でした。コーラスが曲の本質を理解し、難しい箇所をこなしてくれる時は、人生におけるもっとも誇らしい瞬間です。彼らはわれを忘れ、不安を克服し、美しいパートでは嬉しそうに見つめ合います。バスは「汝ら悲しまん(Ihr aber werdet traurig sein)」の一節に感動して妙なる唱和をします。ある偉大なる人格のもとでの集団の一体性が感じられます。こんな瞬間はまことに貴重です。リハーサルごとに歌手の熱意が盛り上がっていくのを見つめるのが大いなる喜びであり、熱意を盛り上げるのがわれわれの栄誉と思っております。最初は演奏経験のある人はほとんどいないのです。一般市民の陳腐な「旧き良きバッハ」の崇拝とは一線を画す本物です。
ラデッケ(1)は主任オルガニストで、ただ座って順番にストップを引き出すのとは違います。
その件についてはもう止めます。もっと重要な件がありますが、先日の手紙でお伝えするのを忘れていました。お願いですから、クリスマスにはいらっしゃらないでください。引きこもっていたいので残念ですが、わたしたちは出かけております。でもいずれいらっしゃいますよね。
今日クレンゲルを埋葬し、彼の墓でバッハを熱心に歌いました。
さようなら、親愛なる友。誠実なるわたしどうように、ハインツ善良公からもよろしくとのことです。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
注
(1)ロベルト・ラデッケ(Robert Radecke, 1830-)バイオリンスト、ピアニスト、オルガンの名手、音楽監督。
[ウィーン、1879年1月]
大変親愛なる友へ
私はあなたが私の整理整頓にかんしてどうお考えか知りませんが、私が聞かなくてはいけない質問によって意見を変えないでください。
あなたのお兄さんは、ショパンのマズルカ作品41の2(1)、ホ短調の原稿を私に預けられましたでしょうか。彼のマズルカの多くの版や写本がここに長年にわたって山のように積もってきました。そこで私は昨日この整理に真面目に取り組んでみました。ヘルテル所有の作品41の印刷業者による写本以外のも、二番の自筆原稿があります。私は、うすい鉛筆で印をつける癖があるので、それがヘルテルの物であるとは思えないのです。たとえば、マズルカの束にはあなたのお兄さんの名前があります…わたしはいくえにも言い訳と弁明をお願いしなければなりません。あなたが整理以外のことでも私に厳しい判断をしておられることを知ってさえいたら、わずかばかりの整理のことで後悔することはなかったのに。
私の演奏旅行はライプツィッヒ(2)の後は坂を下るようなものでした。ライプツィッヒ以上に楽しくはありませんでした。まあ演奏旅行ではどこでも友人やもてなしがあるわけではないから、すこしは大げさかもしれませんが。ささやかな点では、むしろ成功だったでしょうか。聴衆はより温かく活気もありました。ヨアヒムはリハーサルごとに私の作品をより美しく演奏しました。ここでのコンサートでは、彼のカデンツァはあまりに見事で、聴衆は私のコーダに入ってようやく拍手を止めました。でも、フンボルト・シュトラーセに戻り、三人の女たちにもみくちゃにされる特権に比べたら、それが一体なんなのでしょう。あなたは「女性」という言葉には賛成されませんでしょう。
私はあなた方がノルウェーには行かれないことを希望します。それよりケルンテンにいらっしゃい。あるいはバーデンに行かれるなら、私はお会いできるでしょう。互いの仲間に会えるという利点があります。かならずしも私の仲間ばかりではありません。取り急ぎ失礼しますが、お仲間にはよろしくお伝えください。
誠実なるあなたのJ.Br.より
注
(1)この財産の所有者はヘルテル社であった。
(2)ヨアヒムは1月14日ウィーンでバイオリン・コンチェルトを演奏した。その後、一人でイギリス日渡り、クリスタル・パレスでは要請に応じて二度演奏した。ブラームスと再会後、ブレーメン、ハンブルク、ベルリンで共演した。
56.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1879年4月3日
親愛なる友へ
あなたを上手くおもてなしできなかったことで、わたしは気がとがめています。わたしの前の葉書(1)はあなたの少し謎めいた手紙にたいするお粗末な返事です。わたしは上手な言い訳で4ページを埋めることもできますが、あなたを尊重して控えております。ですから、あまり辛く当たらないでください。
フォルクスランド夫妻(2)は、あなたが説得に応じて、帰る途中でライプツィッヒに立ち寄るというという噂を流しております。この手紙はその説得を試みようというものです。地理に明るい人はウィーンへの自然なルートだといいます。地理に不案内なわたしはふたたびお会いできれば非常に嬉しいというだけです。一月のわたしたちにたいする騎士的作法を考えると、あなたにお会いする権利があるようにも思えるのです。ですからどうか、万障繰り合わせてご来訪をお願いできませんでしょうか…
ケルンテンでお会いするのはいかがでしょう。わたしたちはノルウェーには行かずに、結局オーストリアに行きます。八月の中旬まではとても出られませんが、その後あなたがケルンテンのアルプスに行こうと思っています。あなたはここの日陰で憩いたいはずです。
主人も右手を痛めていなかったら、この手紙に誓願を書き加えたはずです。そんなわけで、彼からは挨拶だけですが、わたしの言ったことすべてを保証するといっております。フンボルト・シュトラーセで、その後わたしの青の部屋でアウフヴィーダーゼーン。
誠実なるあなたのエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)葉書は紛失している。
(2)書簡1の注記。
57.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ベルリン、1879年4月15日]
親愛なる友へ
あなたの手紙に書かれたニュースのおかげで、私はライプツィッヒをまことに心穏やかに通過することができます。あなたがノース・ケイプを断念して、ウィーンとグラーツに行かれるというのは朗報です。家に戻りたい今、ライプツィッヒに滞在するよりはるかに快適な気分でお会いできます。私はグラーツにも、ケルンテンの山を越えては谷を越え、あなたのお好きな所ならどこにでも参ります。取り急ぎ失礼します。
誠実なるあなたのJ.Br.より
58.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ、1879年4月21日]
お忙しいところすみませんが、いつかあなたが嗅ぎ回っておられたショパンの緑の楽譜をドレスデン、カイザーシュトラーセ 5の兄宛に送ってくれませんでしょうか。お許しがあれば、ウィーンを通過するときに、お宅に盗みに入って荷造りしてさしあげたいところです。兄は今どうしても自分の緑の楽譜がほしいと申しております。
わたしたちはあなたのライプツッヒ通過を渋々了解しましたが、大いに失望しました。あなたの来訪を夫婦でひたすら心待ちしていましたのに。
でも、山でお会いできる見込は慰めになりました。わたしたちが五月にウィーンを通過するときには、あなたはウィーンにはいらっしゃらないのですから、ケルンテンの方が確実です。なぜあなたはグラーツを訪問されるのですか。そこではあなたに何もしてあげられません。わたしがそれに不平をもらす筋合いではありませんが、ティエリオッツ(1)夫妻が接待してくださるかもしれません。
わたしは嬉しいことに、嬰ハ調とハ長調が見かけほど難しくないことが判り、ピアノ曲集(2)の演奏がいっそう楽しくなりました。
ハインツからは最上の愛を。彼はケルンテンとあなたのことでわれを忘れています。彼はこもりっきりで、短い宗教合唱曲(3)に恐ろしく夢中になっており、この夏あなたを悩ますことは間違いありません。彼は弦楽三重奏の二番(4)を書き終えましたが、これは非常に響きが良く、大変好ましく、良く書かれています。
わたしたちはキルヒナー夫妻に招待されましたが、パーティーの後半には困りました。彼とわたしは一時間半以上デュエットを演奏しました。もちろんすべてキルヒナーの作品です。たしかに、デュエットは、とくに初見演奏の場合、楽しいのは演奏者だけです。親愛なる旧友キルヒナー。わたしが毎回新曲を用意していきますので、彼はいつもご機嫌ななめなのです。彼は傷ついた調子で、「なぜこんな曲を演奏しなければならないのか分からぬ」と言います。また、「そんな曲に興味を持つべきではない。」それでもいつもさっさとピアノに向かいます。可哀想に孤独な人。本当はこのデュエットは面白いし、事実わたしは彼と演奏しています。楽しいタッチがたくさんありますし、彼の作品には真の音楽家らしい特徴があります。でも、大部分が非常に感傷的なこの小品をマスターするために腰を下ろし、何度でもくりかえし、自分だけのために演奏し、鍵盤上の中間音を親指で出すなんて。一体誰がこんなことできると思います。
キルヒナーは聖パウロ教会でオルガン・リサイタルを開きました。それも招待ではなく、はじめて予告したものですが、トマス教会に空席ができそうなのを見越してのことだとわたしたちは思います。それは情けない演奏会でした。真のオルガン音楽は一つもなく、奇妙な半端ものばかりで、ほとんどがシューマンのペダル付きピアノ用の練習曲(5)それに「天国と妖精(Paradise and the Peri )」でした。彼はペダル演奏の部分はさけ、「エコー」でゆらめく転調を演奏する間、片一方のペダルを15分も押さえていました。彼は始めるときも終えるときもうまくやれず、ある部分からつぎの部分へ、両方を見苦しいやり方で押さえて都合よくブリッジしました。本当に、しろうとがストップでふざけているのを聞いている感じでした。バッハのテーマが出てきたと思うと、また期待を裏切り、ほんの3小節が続くだけで、しかも平均律クラヴィア曲集のテーマです。オルガンは彼にとって平面航法のように容易なことだと思っていただけに、わたしたちは失望しました。
もう一つ気に掛っていることがあります。ウィーンの音楽院はどんなものでしょうか。作曲志望の若い音楽家に入学を薦められるでしょうか。
ここには学校を変わりたい人が二人ばかりいてハインリッヒの忠告を求めてきました。音楽院といえるもので、どこがお薦めですか。ベルリン、フランクフルト、それともウィーンでしょうか。ノッテボームは個人教授に熱心でしょうか。一人はそれを望んでいますが、彼の学資では不充分ではないかと心配しています。こんな風にうるさくお願いするのは恥ずかしいのですが、最良の方以外に忠告を求めてもむだですので…それにあなたはすべての質問に一ページで答えられる方です。
では歓喜のアウフヴィーダーゼーンのご挨拶とわたしの限りない尊敬の念であなたは晴れて釈放されます。
あなたのお喋り箱 エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)フェルディナンド・ティエリオット(Ferdinad Thieriot, 1838―)作曲家、当時グラーツのシュタインマルク音楽協会の芸術監督。ブラームスと同郷で、ともにエードゥアルト・マルクセン(Eduard Marxsen)の弟子である。
(2)作品76、現在はジムロックから出版されている。
(3)「混声のための12の宗教的民謡、作品18」。
(4)「バイオリン、ビオラ、チェロのためのイ調の三重奏曲第二番」。
(5)作品56。
59.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン、1879年4月29日]
親愛なる友へ
私はどうにかご質問に答えられる程度ですから許してください。当然返事をだすべき、心優しくて魅力的な手紙にたいして、私の手紙を書く意欲がわくまで待つつもりはありません。手短に述べましょう。作曲教育に関しては、われわれの音楽院は恐るべき状態にあります。教官を見ればよいのです。私のように生徒や作品(1)を見る必要はありません。
フランクフルトも現在のところ薦めません。音楽院に限定するとしたら多分ベルリンかミュンヘンでしょう。ご存じのように、私はこれらの音楽院をひいきにはしていません。私の知るところでは、ノッテボームは一回のレッスンで3グルデンを取ります。これは暗に、彼がわれわれの配慮を必要としているということで、われわれが彼に格別の配慮を期待することはできません。私は教師として彼を強く推薦できます。私のところに来た人をすべて彼のところにやりました。彼の成果には満足する理由があるからです。
ウィーンにはいつ来られる予定か、ぜひお知らせください。私は一週間ほどペルチャッハにいてから来たいので、それに合わせて調整します。私はまたベッドを7つも予約し(2)、今頃はそちらにいるはずですが、祝典週間(3)と天候不順のためにここにいます。
祝典行進の新聞報道を笑ってはいけません。美しさは期待以上であり、筆舌に尽くしがたいものでした。
キルヒナーのオルガンの描写は愉快でした。彼はあなたのために、20年以上前にスイスのご婦人方を仰天させた悪戯のすべてを演じてみせたわけです。しかし、ライプツィッヒの教区委員で、あなたほどの鋭く可愛らしい耳の持ち主はいないでしょう。
ここだけの間の話ですが、聖トマス教会のカントール(4)のポストについて特にご存じですか。私にはどうでもよいこととは思いますが、何も知らないままで決断を迫られています。
急ぎの乱筆をお許しください。あなたとハインリッヒと私たちの若いお友だち(5)への挨拶を受けてください。
あなたのヨハネス・ブラームスより
注
(1)ブラームスは過去20年にわたり1863年に創設されたオーストリア政府の若手音楽家の教育と育成のための奨学金給付の委員会のメンバーであった。彼はこの権限において、ウィーン音楽院の修士や学生を判断する機会が充分にあった。彼の誠意は欄外のメモの意見で示されており、ハンスリックがそれを1897年の6月19日付けの Neue Freie Presse 上で公表している。1884年、彼はこぼしている。「年々、われわれの持っている数少ない才能を台無しにしているのは不名誉であり、許しがたいものである。」しかしながら、この状況は多少改善されている。
(2) ブラームスは二部屋しか使わないのに、プライバシーのために田舎では家を一軒借りきることがあった。
(3)皇帝と皇后の銀婚式。
(4)キルヒナーがヴィンテル・チュールでオルガニストであったことをさす。
(5)ブラームスはバッハが保持した聖トマス教会のカントールのポストを提示された。
(6)エセル・スマイス。
60.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]、1879年5月6日
親愛なる友へ
質問に間髪入れずにお答えくださり、わたしは感激いたしました。わたしたちも現状はあなたが述べられたようではあろうと想像はしていました。ハインリッヒはその若者にウィーンの音楽院には行かないように強く忠告しました。わたしたちはカントール問題について考え、調べてみました。もしあなたがこちらにいらっしゃる機会があるならば、本当にカントールの椅子を光り輝く色で塗り上げたい気持ちです。でも、あなたは再度その考えを断念されたのですね。
トマス合唱団は最近低調で何もかも機械的にこなしています。土曜日のモテット(1)は聴きに行く気がしません。しかしもちろん、今の監督さんは大変高齢ですから、新しい生命を注げる人なら、多くの尊い素材を充分に見いだすでしょうし、偉大な成果も出せるでしょう。よい演奏を保証する仕組みはできています。たとえば、リヒターは活用していませんが、オーケストラのリハーサルには何の制限もありません。レントゲンは、本格的なカントールがやってきて、町のオーケストラに関する特権を主張したらと考えただけで身震いしています。わたしたちはあなたが当地にいらっしゃる可能性は美しい夢と思っており、利点もありますが、あなたがこのポストを受けるとは思えません。さて、あなたの楽しい夏休み、大好きなペルチャッハはどうなりました。その湖の波から、ニ長調交響曲とバイオリン・コンチェルトが泡から誕生した女神のように美しく浮かび上がるのです。わたしたちにとって、ライプツィッヒにとって、つむじ風のようにあなたが降り来るのがどれだけ良かろうとも、いえ、あなたはこちらにいらっしゃるとは想像もできません。ところで、あなたがそれについて手紙される前にカントール席が申し出られたのは共通認識です。あなたをカントールとして迎えるなんて、これ以上に素晴らしいことがあるでしょうか…ではさようなら。この急ぎの乱筆をお許しください。あなたの大変親切なお手紙に再度深く感謝します。本当に祝典のためにオランダに行かれますか。わたしたちの「若き」友人もそうされることを望んでいる一人です。わたしと彼女同様に、ハインリッヒからもよろしくとのことです。ひとえにわがままな熱意で、あなたが当地にお出ましになることを切望いたします。近所に日当たりの良い素晴らしい貸部屋があります。
いつまでもあなたのエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクより
注
(1)聖トマス教会の毎週土曜日の合唱隊によるモテットは古くから非常に人気のある行事である。(英訳者注)
(2)エルンスト・フリードリッヒ・リヒター(Ernst Friedrich Richter, 1808-1879)、傑出した理論家で、モリツ・ハウプトマンの後継者であり、1868年以来合唱隊のカントールであった。
61.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
グラーツ、1879年7月25日
親愛なるブラームス様へ
私たちは家族の問題が重なり、六月初旬から当地に拘束されていまして、八月初旬まではいとしいわれらの山にむけて出発することができません。私たちは再度ケルンテンに行くことを希望しておりましたが、運命は希望に背く決定を下しました。フラウ・シューマンは七月の終わりにガシュタインに行かれます。ほかに計画がありませんので、喜んでそちらで合流しようと思います。彼女にもそう伝えてあります。私たちは八月七日から十四日まで、ガシュタインから半時間ほどのボックシュタインに行き、親戚と一緒に滞在し、鉱泉に行って効能を試してきます。私の最初の計画は、途中でペルチャッハのあなたに会い、シュピタルとマルニッツ(ホーヘ・タウエルン)からガシュタインに行くというものでした。しかし、妻を八時間も馬に乗せて疲れさせるわけにいかず、ケルンテンも断念しました。どうかお怒りにならないでください。それは私たちには非常に辛いことです。あなたはフラウ・シューマンを必ず訪問されますのでしょう。ガシュタインで私たちと会うように日程を組まれては如何でしょう。どうかご検討の上私たちに喜びを授けてください。
あなたの決定にかんして、私たちを暗闇の中に置かないで、あなたが同意しておられるか、同意するつもりであるというお便りをすぐにもいただきたいと存じます。
いつまでも忠実なヘルツォーゲンベルクより
62.ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
グラーツ、1879年7月25日
親愛なる友へ
あなたが私たちに合流されるおつもりで、12時間の列車の旅を厭われないということで、道中の娯楽を提供することを誓います。ペルチャッハで列車に乗り込まれたら、この包みの中にある楽譜を取り出して、心ゆくまで罵倒してください。あくまでも、する事も読むものもなく、緑の景色に飽きられたらの話です。メロディーと歌詞はF.M.ベームの「ドイツの古い民謡集」(1)から取ったものであり、多少の変奏をのぞいては彼の版に従っております、その正確性にかんしては彼に責任があります。私の関心は純粋に作曲にあり、大変面白い仕事でした。
私たちは八月四日の月曜日に出発し、ガシュタインには火曜日に着きます。きっと宿泊施設が不足しており、お粗末で高いでしょうから、私たちが滞在するとしても三、四日でしょう。そこからベルヒテスガーデンに行き、私の理解が正しければ、八月十四日ころにはフラウ・シューマンがそこに来られて私たちと合流されます。冬のことを話してみえますので、あなたはもう恒例の「ゲバントハウスの曲」をきっと書き終えられたと推察します。私たちはあなたのことは言葉通りに信じます。なつかしいティエリオットは、いつものように動じることもなく、シュタイエルマルクの恐ろしい場所に滞在するために出かけました。彼はグラーツに戻るときにはヴェニスを通ってきます。ヴェニスは、今回は私が喜んで通り過ごす町です。
あなたのヘルツォーゲンベルクより
注
(1)フランツ・マグヌス・ベーム(Franz Magnus Böhme, 1827-1898)、理論家。彼の歌と旋律の収集 Altdeutsches Liederbuch は1877年に出版された。これに続いて、ルドウィヒ・エルク(LudwigErk)が1893年から94年にかけてLiederhort を3巻出版した。ブラームスはいずれもよく言わず、ジムロックを通じて出版した7つのドイツ民謡集はベームとその方法にたいする芸術的抗議であるとみなされる。ヘルツォーゲンベルクの編曲は書簡58で夫人が言及している。
63.ブラームスからヘルツォーゲンベルクへ
[ペルチャッハ、1879年8月3日]
あなたの小包大変ありがとうございます。この小包はさしあたり、私の昔の悪戯を思い出させ、私は不吉なため息を洩らしました。あなたの計画それにフラウ・シューマンの計画、色々あって不明瞭ですので、どうしてよいのかわかりません。現在のところはベルヒテスガーデンに望みを託すことにします。二、三日そこで一緒にくつろぐのはさぞかし魅惑的なことでしょう。では失礼します。
あなたのヨハネス・ブラームス
64.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
ライプツィッヒ、1879年11月24日
親愛にして善良なる友へ
あなたはわたしたちのことをお忘れになったようでうね。でもその分、わたしたちはあなたのことを一層考えてしまいます。知らぬまに行き着く想像は、あなたのお幸せな無頓着な性格です。また返事を必要としないので選ばれた一つの想像は、仕事を始められて、意識しつつも、それを控えていらっしゃるというものです。あの懐かしのアルノルドシュタインで、あなたの快諾を得ることなしにわたしが写譜しました。あなたはきっと憶えていらっしゃるはずです。あなたは慇懃に、わたしに写本することを許してくださいました。また、その美しい容貌のせいか、他人の薦めかで、夢中になっている人にも、お見せすることをお許しくださいました。ところが、バッハ演奏会のためにわが家にいるすてきな女の子、アルトですが、輝かしい「死への憧れ(Todessehnen )」(1)を夢中で歌い、とうとうそれを写したくなり、人前でも歌えるまでになりました。大変素晴らしい歌唱なので、多くの人と彼女の歌を分かちたくなるというものです。まさに天上の歌声で、それを写すことが許されなかったら、彼女はどこかに消えてしまいます。ぜひ許して上げてください。どうかわたしたちの気の済むようにさせてください。なにとぞフロイライン・フィデス・ケラーの運命を封印する「よろしい」(それとも「だめ」ですって)を葉書でお伝えください。彼女は「貝殻(Meermuschel)」(2)も魅力的に歌い、写し、「棚に飾り( auf ihren Schrank legen )」たいのです。
それから、わたしたちはいつここでお会いできるのですか。あなたは一月にはかならずいらっしゃいます。わたしたちはそれを当てにし、楽しみにしています。真面目なところ、この清新な毎年の訪問を考えて、こちらでの事に辛抱し、押さえているのです。わたしはあなたのソナタ(3)については敢えて申し上げることはございません。主題については、当を得たのも、得てないのも、ずいぶんお聞きになったでしょう。あなたに知っていただきたいのは、その主題は心に訴えるものであり、音楽の領域でこれほどのものはざらにはないということです。あなたはこの主題をあれこれ解釈し、聴き入っているうちに幸せな夢に迷い込み、第一楽章に夢中になったのです。とりわけ最終楽章は、その精神が積極的にあふれ出て、あなたを虜にしています。自分をこんなに感動させるのはト短調のこの曲なのか、それとも、自分が気付いていない心の奥の自我を占有する他の何かなのかと自己に問いかけておられます。そして、ブラームスが付点八分音符を「発見」したのだといつもあなたを錯覚させる、あの愛すべき{音符}がそこにあります。
結局わたしはしゃべり通してしまいました。可哀想な方。どうか来るという内容の葉書を送ってください。わたしに献呈されるという曲はいつ受け取れるのでしょうか。破廉恥にもヘル・アルガイヤー(4)に別の曲を譲ったからには、今度はわたしのものです。これからは、わたしもクリスマス・プレゼントをだれかに約束しておいて、また取り上げてやることにします。
わたしの挨拶をあなたに。変ホ調のアダージオを天国的なペダル・ノート(5)で、長く続かせるためについ、ゆっくりと、ゆっくりと弾きますが、そのときはいつも、あなたはやはり良い人なのだと感じます。わたしたち哀れなライプツィッヒ子を訪ねることで、このことを証明してみせてください。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルクより
ところでご存じですか。あなたのフィドル・ソナタは「構成においていくぶん自由」であり、各楽章には繰り返しがなく、「直截に書かれている」ですって。「直截に書かれている」というのはどういう意味でいわれたのか、彼らに聞かせていただきたいですね。しかし、最後の楽章は「素材において非常に豊かであり、他の作曲家なら第一楽章と呼ぶことであろう。」ケルナー・ツァイトンク(Kölner Zeitung )がこんなにお利口であると可笑しいとは思われませんか。
注
(1)作品86第6曲。
(2)テレーゼ(Therese)、作品86第1曲
(3)ト調バイオリン・ソナタ、作品78。1879年の夏に完成した。
(4)バラードとロマンス、作品75。画家、銅版画家、写真家、アンセルム・フォイエルバッハ(Anselm Feuerbach)伝の著者であるユリウス・アルガイヤー(Julius Allgeyer)に献呈。ブラームスとの友情は1853年にさかのぼる。
(5)作品78、20ページ、第5小節。
65.ブラームスからエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ
[ウィーン]1879年11月
もっとも尊敬しかつ親愛なる友へ、それとも、もっとも親愛にして尊敬する友へ
若干強制された感じではありますが、告白することにします。あなたが私にそろそろ不満を抱いているのではと考え始めた矢先です。あなたのお手紙はまさに慈善的行為であります。絶対にそうではないって。あなたは私を良い人間だと思いやすく、私もその通りであることを保証する事ができます。ですから、私が枝葉のことで左右されるのがいかに遺憾なことか示唆せていただきます。この短い人生において出会う善なるものは小さく、その小さな善なるもの実に少ないのです。
したがって、あなたが手紙でまさに証明された誠意にたいし、意図して再度感謝の意を表するものです。どうぞ私の音楽にたいして言うべきこと、ためになることがあれば、控えないでください。多少のお世辞はいつも心地よいものですが、大多数はあらを見つけるまでは黙っています。
本当のところ、私はもっとも美しい作品の上にのったあなたの美しい名前を見てみたい気持ちはあるのですが、いざとなるとそれがそうは思えないのです。私は例のソナタ(1)を考えておりましたが、ご記憶のように、ザルツブルグ(2)ではだれもそれに満足しませんでした。
そう、私はあなたの歌手のことを忘れるところだった。彼女の望むものを、通常の精緻な形式で与えたらいいでしょう。しかし、ほかの歌手を怒らせるので、プログラムに「写本」という言葉をのせて欲しくはありません。
初めと同様に、いささか臆病な所見で終わることにします。新作のトリオ(3)のトリッキーな楽節は魅力的です。しかし私は、どうしても和解しがたいドイツ民謡集(4)のトリッキーな節を思い出します。私自身作曲してしまった数多くのトリックアウトしたドイツ民謡集をいやでも思い出し、この点については、えらそうに多くを語れた義理ではありませんが。その標本はあいにくまだ存在しています(5)。われわれはこの点について話し合う必要があると思います。わたしはハインツ氏が将来印刷されたのを知って喜ばれないと思うし、それにとても難しいように思えます、等々。
平均よりも良いか、あるいは、ばかげた手紙は市場に出回り、公共の財産になりやすいものです。同封した手紙は博覧会で「第二」(6)の見本になるとは思いませんか。
まだ一枚分の余白がありますので、ここで広まっているモーゼンタール(7)の冗談を書きます。私が芸術にかんしてあまりに真面目すぎると言いました。私だってときには陽気になると抗議すると、彼はこれを認め、付け加えました。「そう。君は興奮し浮かれているとき、墓はわが友(Das Grab ist meine Freund )と歌い出すものね。」
私はあなたがどんなカンタータ(8)を歌っているのか非常に興味があります。聴きに行きたいものです。
ご主人とほかの方にもどうぞよろしくお伝えください。
J.ブラームスより
キルヒナーに、「ダビッド同盟舞曲集(9)」 は大切に保管してあるとお伝えください。無事お返しできます。こんなに遅れているのはひとえに私の無精のせいです。
注
(1)バイオリンとピアノのためのソナタ、作品78。
(2)ブラームスはザルツブルグ近くのアイゲンにヨアヒムを訪問して、彼とソナタを弾いた。ヘルツォーゲンベルク夫妻はこれを聴くためにベルヒテスガーデンからやってきた。
(3)ヘルツォーゲンベルクの弦楽三重奏、作品27。
(4)書簡62、注記。
(5)四声の合唱曲用のドイツ民謡集、作品番号なしで1864年に出版。
(6)理事会のメンバーからの書簡。
(7)S.H.モゼンタール(S.H.Mosenthal)、詩「デボラ(Deborrah)」の作者。ブラームスは社交界とウィーンのレストランで会っていた。
(8)バッハ・フェラインでの。
(9)新ダビィッド同盟舞曲集(Neue Davidbündler Tänze)、作品18。
66.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]1879年11月28日
親愛なる友へ
わたしはあなたの感謝に利子をつけて、それも複利でお返しいたします。あなたのお手紙がわたしたちに無上の喜びを与えてくださるようになってからかなりの月日が経過しました。わたしたち凡人からすると、あなたのような方は、捧げられた愛と尊敬をたんに貢ぎ物として受け取るべきだとつい考えてしまいます。個々の人の捧げた割合を意識することなく、ただすべてにたいして感謝の意を表するのが普通です。そうであるとすれば、少なくともわたしたちを心に掛けて頂いたことに気付いては大変感激するしだいです。さらにあなたの魅力的な言い回しは言葉では言い尽くせないほど価値あるものです。
同封された手紙はまことに古典的です。これはわたしの署名入りのコレクションにするつもりはありません。あなたの所用物として保存すべきです…わたしはお喋りを続けたいのですが、明日のコンサートで直さなければいけないパートがあり、いろいろとお見舞いに伺わなければならない所もあります。懇意だったクレンゲルは気の毒に61才で死亡しました。彼を尊敬していた6人の子供さんは悲しみにうち沈んでいます。彼らはさまよう羊のようです。今年の冬はいつもよりいやなことが多いみたいです。
ハインツは挨拶とトリオに頂戴した親身の批評に感謝をあなたに送ります。彼は今でも信じていますが、聴いて頂けたら、もう少し寛大な評価を頂けるはずとのことです。わたしたちは実際歌いやすく、練習での出来映えは満足のいくものでした。たしかにトリッキー過ぎる曲があったことは認めています。
フロイライン・ケラーは歌のお礼を言っております。彼女は本当に心にしみるようなアルトの声の持ち主で、完璧に音楽的です。ウィーンで歌える機会があればとわたしは思っております。わたしのことをアルトゥール・ファーベルによろしくお伝えください。彼のお姿を拝見してとても嬉しかったことを奥さんに必ずお伝えするつもりです。ではさようなら。もう一度感謝申し上げます。どうしてわたしたちが不満を抱いているなどと、あなたがお考えなのでしょう。わたしには理解できません。でもかまいません。少なくとももう充分にお話ししました。どうかお見限りなさいませんように。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
67.エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクからブラームスへ
[ライプツィッヒ]1879年12月1日
親愛なる友へ
いそいで暗譜しましたので、あなたの貴重な原稿をお返しします。おたずねのわたしたちのコンサート・プログラムも送ります。今回の公演はいつもわたしたちの喜びであり、苦労に対する充分な報酬でした。コーラスが曲の本質を理解し、難しい箇所をこなしてくれる時は、人生におけるもっとも誇らしい瞬間です。彼らはわれを忘れ、不安を克服し、美しいパートでは嬉しそうに見つめ合います。バスは「汝ら悲しまん(Ihr aber werdet traurig sein)」の一節に感動して妙なる唱和をします。ある偉大なる人格のもとでの集団の一体性が感じられます。こんな瞬間はまことに貴重です。リハーサルごとに歌手の熱意が盛り上がっていくのを見つめるのが大いなる喜びであり、熱意を盛り上げるのがわれわれの栄誉と思っております。最初は演奏経験のある人はほとんどいないのです。一般市民の陳腐な「旧き良きバッハ」の崇拝とは一線を画す本物です。
ラデッケ(1)は主任オルガニストで、ただ座って順番にストップを引き出すのとは違います。
その件についてはもう止めます。もっと重要な件がありますが、先日の手紙でお伝えするのを忘れていました。お願いですから、クリスマスにはいらっしゃらないでください。引きこもっていたいので残念ですが、わたしたちは出かけております。でもいずれいらっしゃいますよね。
今日クレンゲルを埋葬し、彼の墓でバッハを熱心に歌いました。
さようなら、親愛なる友。誠実なるわたしどうように、ハインツ善良公からもよろしくとのことです。
エリーザベト・ヘルツォーゲンベルク
注
(1)ロベルト・ラデッケ(Robert Radecke, 1830-)バイオリンスト、ピアニスト、オルガンの名手、音楽監督。
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